2017年3月14日火曜日

【台湾Arts&Crafts③】黃淑真~台湾という樹皮より生まれる色は。



染織といって、忘れられない文章がある。
日本を代表する詩人、大岡信さんのものだ。たしか中学校の教科書にのっていた。わたしは、国語の時間にはきまって授業とは関係のない別の場所、教科書の中のまだ読んでいないところを熱心に読むという不熱心な生徒だったが、この文章は不思議と心にまとわりつき、なんどもなんども読み返した。
「言葉の力」というタイトルで、こういう風にはじまる。

人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。
ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。
人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。」
(言葉の力-大岡 信)

それから、大岡さんが京都の嵯峨野にある、植物染めの大家・志村ふくみさんの工房を訪れたときのエピソードが紹介される。
志村さんが、ある着物を大岡さんにみせる。ほんのりと淡いピンクだが力強さを秘めた、まさに桜の花そのままの色をした着物である。てっきり桜の花びらを煮詰めた汁で染めたのだろうと大岡さんは想像するが、志村さんに尋ねると答えは想像とまったく違った。
それは、山の桜の花が今まさに咲こうとする直前の、その樹皮をもって染めたというものだった。
それを聞いて大岡さんは「体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれ」る。
黒く固い桜の樹皮から桜そのものの色が生まれるというのは、つまり、その時期は桜の幹も樹液も皮も、樹が全身で美しいピンク色を生み出そうとしているのであって、わたし達がふだん目にする桜の花びらのピンク色は、その発露の一部分でしかない。言葉もおなじで、言葉の「うつくしさ」「ただしさ」を支えるのは、その言葉を生み出す人そのもの、態度そのものではないか。
そう大岡さんは考える。
言葉のうつくしさというものを考察した、真珠を糸で繋げたように清冽な大岡信さんのこの一文、いま読み返すと更に胸に響きわたる感じがする。
そしてこの内容は言葉に限らず、創作ということにも当てはまるように思う。


南投にある國立台湾工藝研究發展中心で、染織の研究者である黃淑真さんにお会いした。

 

國立台湾工藝研究發展中心は、「台湾工藝の父」と呼ばれた美術家の顔水龍(1903~1997)が初代班主任をつとめた南投縣工藝研究班を前身とし、台湾工芸文化の研究に加え、技術の保存と人材育成につとめる国立の施設である。
工芸文化館や工芸設計館で企画展が行われるほか、広い敷地内にはショップやホテルもある。
また3ヶ月/半年タームで陶・染織・金工・木工・竹・漆を学べるコースがあり、費用もリーズナブルなので、職業技術訓練所のような役割も担う。
ここで研究員として染織課で教える黃淑真さんは、台南のうまれ。
台南職業高等学校の服飾部をでて、映画監督のアン・リーや候孝賢の母校として名高い台北板橋にある國立台灣芸術大学にすすんだ後、日本の東京和光大学に留学。
そこで出会った工業デザイナーの竹原あき子氏(現・和光大学名誉教授)の薦めにより染織の道をこころざし、金沢美術工芸大学研究所にて染織デザインを専攻した。
台湾に戻り、一時は台湾の有名なファッション・デザイナー温慶珠(イザベル・ウェン)の服の染めを手掛けるなど作家活動も行ったものの、今むしろ力を注いでいるのは、台湾での工芸教育と研究・普及にある。
発展中心の染織課の工房をみせてもらった。ここで綿をきれいにし、糸にし、植物で染め、糸繰りまで、時間のかかる大変な作業である。

工房の同僚、蕭靜芬楊曄さん  

屋上の広いベランダには、植物染めに使われる草木が植えてある

黃色の糸を染めるのに使う「福木」

「福木」は日本の植物染めでもお馴染みだが、台湾でもよく育つという




台湾の民話にでてくるひょうきんな妖怪の姿をした、赤ちゃんのためのおくるみ

じぶんたちで作った布を、最後に製品に仕上げる。これらの作品で量産できるものは、「NIBO《染人手作》」というブランド名で作品を紹介する。学生が技術を手にするだけでなく、そこから仕事・収入につなげていくことで台湾に染織工芸を根付かせていく、プラットフォーム作りのための試みだ。

そして黃さんには、もうひとつの顔がある。それは「繊維」を通してアジアの仲間たちを繋げる顔である。
2016年の夏に、工藝発展中心の台北分館で催されたファイバーアートの展覧会「見微顕真~The Horizon Fiberland」もそのひとつだ。副題に「Journey of Fiber Crafts across East Asia~台湾、韓国、日本、繊維工芸探検の旅」と題されたこの展覧会には、キュレーションチームの唐草設計会社と手を組んで台湾を中心に日本と韓国からも繊維工芸に関わる作家や工房を招いた。それら作家のおおくは、黃さんが現地のスタジオに足を運び招聘したものである。

韓国からは人間国宝の金孝中さん、伝統的なパッチワークを手掛ける工房「姜綿星」、日本からは黒谷和紙と、冒頭の大岡信さんのエッセイに登場した日本の染織工芸家の第一人者、志村ふくみさん・洋子さん母娘が招かれた。
地元台湾からは、志村ふくみさんも邂逅を楽しみにしていたという染織作家の簡玲亮・馮瓊珠さんほか、バナナなど台湾で育つ植物の繊維をもとに商品開発をおこなう工房、鹿港で伝統的な刺繍や香包つくりを伝える作家など、人間の生活に寄り添ってきた繊維文化がアジアの各地で色とりどりの姿・さまざまな形に息づいてきたのを体感できる、見応えのある展覧会となっていた。



繊維という題材を通して、国と国、人と人とのあいだをつなぐ糸をつむいでゆく黃淑真さんは「つむぐひと」である。
いっぽう、日本や韓国をはじめ、色んな国々の美術工芸の環境をつぶさに観てきたからこそ、台湾工芸の現状にたいする問題意識と危機感も深い。歴史的にも生活スタイルも、台湾アイデンティティを具体的にしめす文化要素が足りないと感じている。
「台湾」という樹が咲かせるのはどんな花なのか?その樹皮で糸がどんな色に染まるのか?
そう問いかけながら、黃淑真さんはきょうも日日をつむぐ。






スクリーン越し台湾通信~百日告別

台湾を、もっと深く知るためのウェブマガジン「TaisukiCafe」さまで、「スクリーン越し台湾通信」というコラムを連載しています。

最新記事は、いま日本で公開中の台湾映画「百日告別」について、2年ほど前に書いたブログ原稿に加筆修正したもの。
同じくお葬式を通して人生に対面する「父の初七日」や最近みたドキュメンタリー映画をについても触れています。

https://taisuki.cafe/sono/925

2017年3月5日日曜日

【台湾映画】德布西森林/Forest Dobussy~グエイ・ルンメイの太もも


京都の鞍馬の火祭に何度かいった。いちど、かえりの終電をのがし歩いて山を降りたことがある。
夜の京都の森は深くて暗くおそろしい。CMYKカラーでいえば「K100パーセント」あるいは「リッチブラック」というのかもしれないが、実際の夜の森の黒さは、それよりもっと深い。あんな暗さを後にも先にも見たことがない。鹿か、猿か、イノシシか。はたまた熊か。黒よりも黒い闇の中にときおり蠢く獣の気配がする。この暗さの中に昔のひとは、「鞍馬天狗」という妖怪が闇を飛び交う幻想をみた。


台湾の山で夜を過ごしたことはないけれど、きっともっと怖ろしいだろうとおもう。
長く住み慣れた日本の自然とは、全くちがう亜熱帯の植生の山々。毒虫や毒蛇。つやつやと緑色にひかる大きなクワズイモの葉っぱだって、毒がある。タロイモと間違って食べたら大変なことになる。
やっぱり森は怖い。
まずこの映画を見ながらそんなことを思った。
映画「德布西森林/Forest Dobussy」は、自暴自棄になったとある女性が恐ろしい台湾の森の夜をサバイバルするうちに、生き直す決心をする話だ。

虚脱状態の娘(グエイ・ルンメイ/桂綸鎂 )を世話しながら、母親(陸弈靜)は台湾の森深くを彷徨っている。人の気配におびえているらしいふたりは、何らかの事情を抱えて森を逃げまわっているらしい。

母親は森についてある程度の知識があるようで食べられる草や毒草にも詳しいが、母親がつかう火打ち石が、なかなか火が点かない場面が何度も出てくるのは印象的だ。
「火を使う」という人類のみに与えられた文明を失うにつれて、ふたりの言葉を介したコミュニケーションもやがて支障をきたし、ついには生命がおびやかされる。
食料やガスが水びたしになったりテントを失ったりと、だんだんと文明から引き離されていくにつれ二人の肉体が傷めつけられていく様は、いかに私たちが普段の現代生活のなかで、衣服や家や光熱・水道などに安全と生命を守られているかを、まざまざと見せつけるようだ。

最後にひとつ残されたインスタントラーメンを食べるために水を汲みに行った母親は、毒蛇に噛まれる。娘は母親を救おうと母親を背負って休む場所を探すが、母親は娘の背で息絶える(ちなみに母親を演じた陸弈靜は、この役で2016年の助演女優賞にノミネートされたが、ここの演技が評価されたものと思われる、それぐらい凄みのある死人っぷりだった)。
映画がすすむにつれ、娘がもともと国際的に有名なピアニストで人の羨む幸せな家庭を築いていたが、夫の裏切りにあったことで家に放火、夫と子供が焼死させたことも明かされるのだった。

母親を土に埋め終えた娘は、自分もその傍で死ぬことを選び、木のつるを大きな木の枝にかけて自殺をはかるが死に切れない。自殺もまた人類のみが持つ文明的行動だ。ここでも、娘が徹底的に文明から見離されたことが描かれるのだ。
死に切れなかった夜、娘は月に照らされる台湾の深い森に息づく生命の美しさを発見する。そこで呼び覚まされるのは、かつての自分が愛したドビュッシーの旋律である。
夫殺し・子殺しを経て鬼畜道に堕ちていた娘のこころに、台湾の森のうつくしさを通じて人間らしさが蘇り、ついに娘は山を降りる(=自首する)ことを決意するという、こう書くと何だか人形浄瑠璃みたいな話である。

公開当時は一ヶ月も経たずに打ち切られてしまった作品でヤフーの観客の評価も星二つと評判はかなり芳しく無かったが、わたしとしてはそこまで悪い作品だと思わなかった。
ではこの作品の一番の見どころはなにかと問われれば、ちょっと声を大にして言いにくいのだが、それは「グエイ・ルンメイの太もも」である。
じぶんが虫に刺されやすい体質だからというのもあるが、この映画でいちばん気になるのはとにかくグエイ・ルンメイが殆ど蚊に刺されないということだ。とにかく蚊の多い台湾の森で何日も虫刺されの薬なしで過ごしていたら、顔といわず身体と言わずボコボコになってしまうはずだ。
しかし、グエイ・ルンメイの顔を蚊でボコボコにするわけにはいかないのである。何故なら彼女はグエイ・ルンメイで、これはグエイ・ルンメイが主役の映画だからだ。映画だとすれば、こちらも好きな見方というものが出来るはずで、その好きな見方とは「これはグエイ・ルンメイの太ももを観るための映画である」というものだ。
そこからもうひとつ踏み込んでみれば、グエイ・ルンメイはこの映画のなかで人ではないものに成ってしまっていた、だから蚊に刺されないという見方もできる。
雨でずぶ濡れになったグエイ・ルンメイが、身体を乾かすために川沿いの岩に身を横たえるのだが、ひんやりとした絹ごし豆腐を思わせるその白い太ももを見ていてゾクリとした。
それは夫も、子も、母親をも死に追いやってしまった、台湾の森奥深くにひそむ美しき魔女の太ももなのだ。

「德布西森林/Forest Dobussy」
監督:郭承衢/2016/台湾