2017年1月16日月曜日

【台湾Arts&Craft①】李榮烈の竹~暮らしが仕事、仕事が暮らしの精神



「恐らく世界の何処を探しても滅多にあるものではなく,工藝の村として吾々が頭で考えている一つの理想 に近いものが,この世に実在している」


日本民藝運動の父・柳宗悦が、1943年の台湾視察で竹細工を作る村を訪れた際にのべた感慨である。
その土地の気候、民俗、生活習慣を反映しながら発達してきた「工芸」。
福建系移民の閩南文化、客家文化、日本統治時代に流入した日本文化、戦後のメインカルチャーとなった中華文化、そして近年、おおきく見なおされつつある原住民文化。台湾の工芸の多様さはそのまま、歴史やここに暮らす人々の背景の複雑さを物語り、仏像や人形、玉・漆・植物編み・金工・ガラス・染織・紙・木工など、その種類は多岐にわたる。

なかでも竹工芸は、京都・桂離宮を最初に世界にひろめたドイツの著名な建築家、ブルーノ・タウトを「たちあがれなくなるほど圧倒し」(民俗台湾/1943)、柳宗悦をして「台湾本島人の工藝品のうちで一番目立つもの」と評させ、京都の河井寛次郎記念館に今ものこる「寛次郎の竹の家具」へと大きな影響を与えた。
また当時の台湾の竹細工職人が京都の工房に招かれると共に、逆に台湾総督府の設置した「竹材工藝伝習所」に日本から職人が招かれるなど、内地では植民地である台湾の工芸技術を下にみる向きも多かったなかで、竹工芸に関しては、対等な立場での技術交流がおこなわれていたという話しもあり興味ぶかい。

「竹材工藝伝習所」は台湾総督府によって、元より竹工芸のさかんな地であった台南の関廟と南投の草屯との二箇所に作られたが、その後者が「台湾工藝の父」と呼ばれた美術家の顔水龍(1903~1997)によって「南投工藝研究班」となり、その後いまの、工芸の研究・技術の保存と人材育成につとめる国立の施設「國立台湾工藝研究發展中心」となった。
草屯とは、日本統治時代以前よりそうして竹工芸が脈々と受け継がれ発展してきた地なのだといえる。

2016年に台湾の「無形文化財(人間国宝)」に認定された李榮烈も、1936年、草屯の郵便局員の家にうまれた。
18歳で南投縣工藝研究班に入った李は、台湾竹工芸の大家・黄塗山の一期生であった。1960年(民国48年)に来台した日本の人間国宝・飯塚小玕斎の指導をうけ、1978年には漆芸家・陳火慶について漆芸技法を習得、漆と竹という素材・技法を組み合わせた「籃胎漆器」をものした台湾では数少ない工芸家となる。台湾工芸の父・顔水龍とも深い親交をむすび、顔水龍とのコラボレーションである「木製餐桌椅組」を制作するなど、台湾工芸の生き字引的な存在ともいえる。

 作品:木製餐桌椅組/作者:顏水龍、李榮烈/1994


代表作は籃胎漆器の技法で作った、テーブルと椅子、茶道具のセットだろう。この茶壺をひとつとっても制作に一年が費やされたというが、いぶした竹編みの上に何層も漆塗り重ねて作られた茶器や籠は深い色味を帯び、繊細さと力強さをあわせ持つ。


卓椅組(1992)


李栄烈は彼が長年あつかってきた「竹」そのものだ。南投草屯の地に広くふかく根をはり、多様な技術を吸収し、経験をためこんで強度をそなえ、80歳になった今も地元の工藝研究發展中心にて後進を育てることに力を注ぐ。


 「暮らしが仕事、仕事が暮らし」ということばを遺したのは、民藝運動のなかで大きな功績を遺した美術家・河井寛次郎だが、ついに河合も晩年には観念的な芸術のなかにその意識をしずませて以降、うかび上がることはなかった。
 それに対して、李栄烈が提示するものは、素朴で明るい「手をうごかして作ることへの喜び」である。そこで李が根っからの職人なのかといえば、そうでもない。それを証拠に李のスタジオには、まったく同じ作品が二つないのだ。
 「ひとつ完成したら、また少しむつかしいことに挑戦するのを大事にしている」
 注文を受けてつくることはあるのかという質問には
 「すくない、こんなものを作りたいという気持ちに従って作っているから」

 温かみと強靭さの共存する李榮烈の作品に見えてくるのは、暮らしと仕事とが結びついた幸せなカタチである。
 割る、裂く、曲げる、組む、編む。
 しなやかに姿を変えるようでいて、じつは扱いのむつかしい「竹」と60年以上の時を過ごすうち、李榮烈は自由自在なこころをも手にいれたかのようだ。●

(2016年5月のインタビューを参考)






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