2016年10月14日金曜日

【日本映画】怒り~世間という名の「怒」の正体(※ネタバレ注意)



「怒り(いかり、英: anger)とは、人間の原初的な感情のひとつで、様々な要因・理由で起きるもので、例えば目的を達成できない時、身体を傷つけられた時、侮辱された時などに起きるものである」
(ウィキペディア『怒り』




吉田修一の原作が、「悪人」(2010)に続いて李相日監督で映画化された。

タイトルは「怒り」(台湾公開タイトルは一文字で『怒』)。
豪華なキャスティングと、2時間22分という長さを感じさせない緊密な演出で話題となっている作品だ。

物語は、東京八王子の住宅地の鳥瞰風景からはじまる。
果てしなくつづくかのような、整然と一戸建てが連なる管理された街並み。
ここで起きた殺人事件が発端となり、逃亡生活をつづける犯人をめぐって、沖縄・千葉・東京に現れた謎の男3人のうち誰が本当の犯人なのかをさぐるミステリーが、この映画「怒り」の骨子となっている。

謎の男ひとりは、歌舞伎町のゲイサウナで優馬(妻夫木聡)にひろわれた直人(綾野剛)。
一緒に過ごすうちに次第に直人を信頼するようになった優馬は、亡くなった母親の墓へいつかいっしょに入ろうとまで言う。しかし、ちいさな猜疑心が積み重なり、テレビでみかけた「整形しながら逃亡している殺人容疑者・山神は直人かもしれない」と考えるようになった優馬は、直人を遠ざける。

もうひとりの謎の男は、千葉の港町でちいさな漁業の会社を経営する槙(渡辺謙)のもとに現れた田代(松山ケンイチ)である。
田代は、槙(渡辺謙)と二人暮らしで軽度の発達障害をもつ娘・愛子(宮崎あおい)と関係をふかめ、槙の支えでアパートを借りて共に暮らすようになる。ある日、逃亡中の殺人容疑者の報道を見た愛子は、それが田代ではないかと疑い警察に通報する。田代はそのまま姿を消してしまう。

3人目は、沖縄の無人島にあらわれた男・田中(森山未來)。じつはこの田中が、整形しながら逃亡している殺人容疑者の山神である。
友人の辰哉(佐久本宝)とボートで無人島に遊びに来た泉(広瀬すず)は、廃墟にひっそりと暮らすバックパッカーの男・田中と出合い、いらい度々田中をたずねるようになる。
ある日、那覇に出かけた辰哉と泉は、偶然そこで田中を見かける(ここで泉が何度も田中の名前を呼びかけるのに振り返らないのも、田中が真犯人である伏線になっている)。
3人で酒を飲み田中と別れた後、泉はアメリカ兵らしい黒人男ふたりにレイプされ心身に傷を負う。
泉を助けることが出来なかった辰哉はじぶんの情けなさを責めるが、田中は辰哉に寄り添い「いつだっておまえの味方だよ」と声をかける。このことから、辰哉は田中への信頼を深めていく。
辰哉の実家の民宿をしばらく手伝っていた田中だったが、突如として人が変わったように凶暴になって暴れたのち、民宿から姿をけす。田中を探して無人島に向かった辰哉は、泉がレイプされたことを嘲ける田中の暴言に憤り、田中を刺し殺す。廃墟の壁には、泉のレイプを嘲笑する言葉と共に、八王子の事件現場に残されていたのと同じく、大きな「怒」という文字が残されていた。警察の調べにより田中こそが、逃亡中の山神本人であると判明する。


3つの筋が錯綜しながらも、置いてけぼりを感じたり混乱をきたすことなく、しっかりと物語の世界に没頭することができる。俳優陣の渾身の芝居の魅力を、李相日監督はあますところなく捉えてストーリーにおさめていく。この緻密さ、語り口のうまさ、もう殆どアルチザンの領域だ。

この映画を精密に織られた絨毯に例えるならば、縦糸は「怒り」、そして横糸は「信頼」である。
ー 同性愛者と信じていた直人が、(誤解ながらも)異性の恋人を隠していたことへの、優馬の怒り。
ー 直人を永遠に失ってしまった優馬が直面した、直人の信頼を裏切ったじぶんへの怒り。
ー 娘の愛子を周囲の偏見から守れず、かといってどうすることも出来ない槙の、無力な自分への怒り。
ー 田代を信頼できなかった愛子の、自分の情けなさへの怒り。
ー 田中を信頼して裏切られたことへの辰哉、泉の怒り。

それ以外にも「信頼」と「怒り」の表現をあげればきりがないが、「信頼」というものが如何に脆くはかないものであるかが、3つの群像劇をとおして細かく描かれる。

そのうえ、それぞれの場所で現れる「怒り」は異なる結末を連れてくる。

東京編では、取り返しの付かない「怒り」。
千葉では、やり直しのきく「怒り」。
そして沖縄では、社会へと向けられた「怒り」。

中でも沖縄篇の「怒り」は興味深かった。じっさい沖縄の人たちは「怒る」べき理由を沢山もっている。現に今も、高江のヘリパッド問題で沢山の方々が怒りをもって戦っておられる。
「怒り」とはマイナス・イメージとして捉えられがちだが、ここで提示されるのは「権利としての怒り」である。かつて鳩山元首相の口にした「最低でも県外」という言葉も、信じたかったのに裏切られた沖縄の「怒り」を呼んだ。
映画では米軍基地反対のデモに辰哉の父が参加しているシーンが描かれ、幼い辰哉の感想は「どうしようもない」「あんなことしても無駄」というものだった。しかし、大事に想っていた泉が暴行を受けた。なぜなら米軍基地があるから。それは基地問題に無関心でいた自分に対する怒り、しかし無力な自分への怒りとして、最終的に田中へむけられる。辰哉が田中を刺したのは、単に信頼を裏切られたことだけでないように思う。積み重なった理不尽な事共に対する重層的な「怒り」の発露だろう。


映画を観た直後には、しっくり来ない部分があった。
信頼と怒りについてのテーマはわかる。でも山神の殺人の動機がイマイチ理解できないのだ。山神の元・知人が殺人の動機について喋るが、どうも納得でがいかない。八王子の殺人現場と沖縄の廃墟に残された大きな「怒」の文字が映画の筋とどのように繋がるのかも謎である。
この映画をみてモヤモヤを抱えた人の多くは、恐らくココで引っかかっているのではなかろうか。

わたしもモヤモヤしていた。そして山神(森山未來演じる田中)は、「世間」のメタファーじゃないかと考えてみたところ、途端にするりと謎が解けた。

田中の怖さとは、親切で、無関心で、ときに共感してくれて信頼ができ、しかし突如として荒ぶり、てのひらを返して爆発的な攻撃をしてくるところだ。これって言い換えてみれば世間の「炎上」と似てないか?
冒頭にはじまる、八王子の空撮風景。
何万人という人が暮らし、日々無数の感情が生まれてはぶつかり、ドス黒く燃えあがっているはずなのに、空からみる限り、整然とコントロールされた無味乾燥な街並みが続いている。
この街のなかで、コントロール不能となった怒りの集合体の蠢きが行き止まって爆発するとき。それが、この映画の発端となった殺人事件現場の血塗られた「怒」の正体である。

そう考えれば、田中の不可解な行動のいろんなことに納得がいく。
警察が踏み込んだときにはモヌケの殻だったアパートの壁一面に山神が書きなぐった落書きは、まさに便所の落書きやら、2ちゃんから始まった匿名掲示板を彷彿とさせる。
そこで発生した怒りに理由はない。ただ「侮辱された」「むかついた」。他人には不可解な非常に個人レベルの受け取りかたが、他人を攻撃する動機となりえる。これが現在の社会における「怒り」の現れ方で、ときにそれは人をも殺すほどのパワーがある。

それは「正義」としてまかりとおることもある。
最近、ベッキーとか乙武さんとか色々世間をさわがせた不倫報道について、わたしは基本的に「よそさまのご家庭のことなんやから」とおもっている。大体、ひとんちのことに正義を振りかざしてゴチャゴチャ言うアンタは一体何様でどんだけジブンはお綺麗な生活しとんねん?と逆に聞いてみたくなる。
しかし、世間ではそれを責めたてることが「正義」らしいのだ、どうも。

犯人の名前が「山神」というのも興味深い。
ジブリの「もののけ姫」が描いたように、太古から人間にとって自然が一番の脅威だった。現代人の生活にとっても、自然が脅威であることは間違いがない。東北の震災での津波の被害はいうまでもなく、毎年のように、地震や台風の被害のニュースが絶えない。しかし現代人にとっては、自然以外にも「荒ぶる神」がいる。何かといえば、「世間」である。
行動を通して見て、田中(山神)は多重人格者とか統合失調症とかの精神障害にあたるとおもう。捕まったとしても無罪になったかもしれない。「死刑の是非」「精神障害者の減刑反対」という見地から見れば、世論は怒りを露わにして山神の死刑を望んだだろう。
辰哉は「世間」を代表して田中を殺したともいえる。辰哉が田中を刺したときにみた「怒」の文字はつまり、「世論」の怒りでもある。
また、穏やかな波の中にある無人島は、田中の心のメタファーであると同時に、世間のメタファーでもあるかもしれない。波も穏やかならば、ボートはまっすぐに無人島へとむかっていく。辿り着いた島には廃墟があり、中には様々な呪いの言葉が吐き散らされているのだが。いったん台風がきて荒れ狂えば、ボートの操縦はコントロール不可能となる。


吉田修一李相日は、前回の映画「悪人」で「悪人とは結局なにか?」ということを観る人に突きつけた。わたしのまわりでも「悪人」の妻夫木君に対して、逃亡の苦しみなどへの共感を多く耳にした。結局、事件のいきさつが見えれば見えるほど人は共感をよせる。要は語り口であり、その人が「悪人」かどうかは主観でしかないと映画は語った。
そういう意味で、「悪人」で描いたことを更に突き詰めたのが「怒り」であり、悪人を「序編」とすれば、この「怒り」は本編ともいえそうだ。
ネットで幾人かの感想を読んでいて、こんなことを言ってる人がいた。
泉がレイプされていたときに「ポリスー」と叫んだのは、やっぱり田中だろう。殺人事件の後に改心して自分の罪に怯えていた田中の、泉を助けたかった/助けられなかったことへの葛藤が結局、田中を苦しめ反動的な行動に走らせたのではないか。これは「性善説」にもとずく「怒り」の解釈であるが、こういう色んな意見が出ることも、作品の奥深さを物語っている。
わたしは、「悪人」の妻夫木君も、森山君演じる山神(田中)も、一種の精神障害ではないかと思っている。だから映画の中で、どちらも一貫した行動論理を持てないでいて、そこをどう判断するかは、観る人に委ねられている。
いわば社会のもつ病を体現した存在とも言えて、これに関しては以前「ズートピア」について書いた台湾の「小燈泡ちゃん事件」にも関連するので、興味を持たれた方はそちらも参照されたい。



ここまで書いて気づいたことがある。
これは、個人的な「信頼」と「怒り」の関係を描きならも、じつは社会的マイノリティと世間との壁を提示した映画である。
ゲイの優馬。
セックスワーカーという過去を抱えた愛子。
基地問題に揺れる沖縄。
無垢な少女だった泉が、事件を境に世間から隠すべき弱者の側に置かれる。
美しく青い空と海は一見、ひろい世界や開かれた将来への希望を象徴しているようにみえるが、そこに泉の叫びはむなしく、かき消えてゆく。



「怒り」
監督:李相日/日本/2016







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