2016年8月21日日曜日

【台湾ドキュメンタリー映画】湾生画家 立石鐵臣~忘却の発見




昔、こんな話を聞いて椅子から転げ落ちそうになった。

とある若いがそれなりの大学も出ている日本人男性が台湾に遊びに来て、帰り際に同行者に尋ねた、

「ところで『蒋介石』って石、結局どこにあったの?」


まるで何かのネタか都市伝説みたいな話だったから、聞いた瞬間は「それヒドすぎ!」と大爆笑したものの、そのあと何だか大きな宿題を背負わされた気分になった。笑って済ませられ無い問題なのに、どう考えていいのかよくわからなかった。

わたしが台湾にきた10年前には、「台湾に住んでいる」というと「台湾ってタイ?」などと真面目に返されることは少なくなかった。
どう反応したらよいのか、という申し訳ないような曖昧な表情を皆浮かべていた。
日本の住民票には、夫の国籍は「中国」と書かれたし(最近は自治体によって台湾と書かれるところが増えてきているらしいが)
わたしより前に台湾に嫁に来た国際結婚の先輩方に対しては更にひどく、
「テレビとかあるの?」
「川で洗濯とかするんでしょ?」
「ゾウがいるんでしょ?」
など、今聞けばジョークにしか思えない失礼な反応を多くの人が本気(と書いてマジ)で発していたんである。
とはいえ、わたしも嫁に来るまでは似たようなものだったので人のことを兎や角言えないが、台湾がかつて日本の植民地だった、という重要な近代史にここまで日本人が無知・無関心なのは異常ともいえて、どうしてこんなコトになってしまったのだろうか。


ドキュメンタリー映画「湾生画家 立石鐵臣」を観て、立石に対する再評価が今の今までかかったのは、そんな戦後の日本人の台湾に対する態度と無関係ではないのかも、と思った。


わたしが立石鐵臣の絵と初めて出会ったのは、台湾における立石研究の第一人者・邱函妮さんの「灣生.風土.立石鐵臣」(雄獅美術)という本の中である。
(実はその前に『南方・南洋・台湾』という文学アンソロジーの挿絵でも出会っていた、いや、もっといえば幼いころに読んだ科学や図鑑の細密描写できっと出会っていたのだけれど、それは映画を見てから知った)

立石鐵臣という画家は日本ではこれまでほぼ無名の存在だったが、戦前の台湾の風俗・民俗・工藝を幅広く記録した人として、台湾では70年代から一定の評価を受けてきた人物だ。


とにかく時代によって絵の方向性がコロコロ変わる作家で、とらえどころがない。が、どの時代の絵も一度みたら忘れられない魔力があって、ひと目で好きになった。共通しているのは、作家自身が対象の中にとらえた面白さや美しさの全てを絵で伝えたい!という欲求と情熱である。
何より驚いたのは、こんな魅力的な作品を生み出した作家が、これまで日本で殆ど知られて来なかったという事実だ。
じつは数年前に、監督の郭亮吟さん
(『緑的海平線~台灣少年工的故事』監督)から映画が製作中であることを伺って、完成を楽しみにしていた。
そして今年、ついにみることが出来た(制作には10年が費やされた)。
ワールド・プレミアとなった今年の「TIDF~台湾国際ドキュメンタリー映画祭」では、早くにチケットも完売し満席、最後には観客賞も受賞し話題となる。
映画は立石の作品や友人・家族との関係・仕事を丁寧に追っており、立石鐵臣に対してより立体的な理解をもたらしてくれた。

立石鐵臣は1905年台北の生まれ。父親は1987年より台湾総督府の職員として働いていた。
9歳ごろ内地へ戻ったのち絵をまなび始め、岸田劉生や梅原龍三郎に師事した。とくに梅原には多大な影響をうけると共に「いつか日本画壇を背負って立つひとり」と将来を嘱望されたという。
梅原の薦めでふたたび台湾の地を踏んだ立石は、台湾の風景を描いた油絵のほか、当時の台湾人の工藝や習俗を記録した挿絵をおおく残した。
なかでも、立石が表紙や挿絵を担当した雑誌「民俗台湾」は、失われたかつての台湾人の生活を伝える貴重な歴史資料として、台湾では昔から一定の評価を受けている。



戦争が終わり、立石は民俗学者の国分直一らとともに、しばらく台湾で留用されていた。日本に引き揚げた後は、得意の細密描写を用いて多くの動植物図鑑などで仕事をする傍ら油絵も描いたが、日本の画壇では無名のまま1980年にその生涯を終えた。75歳であった。

それから36年。
去年の銀座・泰明画廊での回顧展を皮切りに、今年の春には東京府中市美術館で初めての大型回顧展も開催され、ようやく日本での再評価がスタートしたという所だ。


先日、ジャーナリストの野嶋剛さんの新著「台湾とは何か」(筑摩新書)を読んだ。
これまでの日台中の社会的・政治的・歴史的な関わりから去年のひまわり運動を経てこれからどうなるかまで丁寧に深く紐解いてくれる良書だが
(しかも3ヶ月で『重版出来』が決まったそうで、良いご本であるのは勿論だけれど、やっぱり台湾は何かを知りたい!って言う日本人が増えているんですね)
この本でも「日本人の台湾に対する思考停止」は、日台関係を考える上で大きな柱のひとつとなっており、台湾現代史研究の若林正丈さんのご著書から
「台湾をどう考えるかということは、戦後の日本人の思想史、あるいは精神史レベルの問題なのだろうと思います(以下略)」
という言葉をひいて、
「日本人の台湾への『思考停止』(あるいは忘却)は、病気のレベルにあるといっているようにすら聞こえる」と書かれている。


わたしの母が版画を習っており、版画の先生は教科書によく載っていた「下関講話談判」(清国が日本に台湾を割譲することを決めた『下関条約』調印のこと)の絵を描いた洋画家「長地秀太」の孫にあたる人なので既に相当ご年配なのだが、以前お会いした時に「そのうち台湾に遊びにいらしてください」と声をかけると、しばらく考えてから
「日本が悪いことをしたところには、やっぱり行きたくない」
と返された。
おそらく戦後多くの日本人にとって、こういった近代史に対する罪悪感は殆どトラウマのように重く心にのしかかってきたのだろう。罪悪感をかんじるものには、なるべく目を背けたくなるのが人情である。それは戦後の冷戦構造のなか、かくじつに近代史教育や報道へ影響をあたえている。




それで思い出したのが、映画上映にあわせて来台し、上映後に登壇して立石についての思い出を語ったり、質問に答えてくれた立石の長男、次男のお二人のお話されたことだった。
質疑応答のさい、「南京の大虐殺をどう思うか」と質問したひとがあり、監督は
「この映画で描いていることは、直接そのことと関係がないので答えられない」
と応じたが、その後、長男の立石光夫氏がその質問を引き取って、
「むしろ日本人としてそういう声を聞きたいと思って自分はここに来た」と云われた。
また
「亡くなる前までに、立石鐵臣がもう一度台湾に来る予定は無かったのか?」
という質問には
「来たいとは思っていたと思う。でも事実として言えることは、父は韓国には行ったのですが、台湾には来なかったということ」
というやり取りもあり、立石が戦後の台湾に対して何らかの屈託を抱いていた事が感じられた。

台湾から日本へ引き揚げる際、基隆から離れゆく自分の船をたくさんの台湾人が見送りに来てくれた場面を描いた作品があり、そこには「吾愛台灣!」という言葉が繰り返し三度、絶叫するように添えられている。
それ以外でも、立石の台湾へ対する愛情は作品を通して随所に感じることが出来るし、人間的にも差別感情とは無縁の人柄で、台湾人の友人も沢山居たと多くの人が述べている。そんな立石でさえ、やはり台湾時代に対して「日本人としてのトラウマ」を抱いていたのではないかと、このご兄弟のお話を聞いた時に初めて思いあたった。
それは同時に、立石の戦後の画壇における評価にもいえるように思う。
立石を始め、台湾で活躍し引き揚げ以降日本で評価された画家は居ない。一つは戦前に描かれた作品が残されていなかったのは一因だろう。
しかしもうひとつの原因は、画壇という名の日本人社会が「湾生」という存在、ひいては台湾から顔をそむけ続けて来たことにあるのでは無いか。


それがここ数年、特に311以降、台湾に対する日本人の態度は大きく変わった。
筆者がこのまえ日本に一時帰国した際にも、大なり小なり毎日のようにテレビで台湾の話題を目にし、小英総統がパナマに外遊に行った話なども大きくニュースで取り上げられているのを見て、台湾についての関心が高まっているのを肌で感じたものだ。
また「湾生」自体にスポットを当てた映画も作られ、注目を集めている。

311の台湾からのケタ違いの支援に呼応して、日本人は隣人としての台湾を「再発見」した。
それに付随する「ありがとう」や「好き」という素直でポジティブな気持ちこそが、戦後を通して日本人が抱いてきたトラウマを癒やすのかもしれない。ようやく日本人は、台湾の顔を正面から見ている気がする。
そして、トラウマの反動ともいえる右翼的·自己愛的な台湾評価よりも一歩進んだ台湾への理解が、このドキュメンタリー映画の中にはある。
そいう意味で「立石鐵臣」が抱えているのは、日本人が台湾をもう一度発見していく物語でもあるのだろう。


「台湾ブーム」といわれる昨今だが、ブームだけで終わらないでほしいと思うし、より多くの人にこの画家の作品と、それにまつわる物語が届けられてほしい、心からそう願う。




灣生畫家-立石鐵臣 /監督:郭亮吟、藤田修平
2015│日本、台灣│59min



















1 件のコメント:

  1. 立石鐵臣は1905年台北の生まれ。父親は1987年より台湾総督府の職員として働いていた。..... 父親は1897年より

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