2016年3月31日木曜日

【映画】The Lobster ~愛は盲目(Love is blind)。



「浅い海の岩礁や砂礫底に孔を掘って単独生活をする。寿命は極めて長く、推定年齢100年程のものも発見されたことがある。
(Wikipedia「ロブスター」より)

それは過去にも見えるし、近い未来にも遠い未来にも見える。
その社会システムでは、「独身者」になると強制的に「ホテル」に送られ、45日以内にパートナーを見つけなければ動物に変えられてしまう。社会の厳格なルールに從えるものだけが、社会に出て生きて行くことを許される。
ある日、突然妻に離婚を言い渡された主人公デイヴィッド(コリン・ファレル)も例にもれず、すぐさま「ホテル」へと送られた。もしパートナーを見つけられなかったら、何の動物になりたいですか?の質問に、「ロブスター」と答えるデイヴィッド。理由は、100年以上も長く生きることが出来るからだという。
周囲が次々とパートナー探しに成功、もしくは脱落していくのを観ながら、デイヴィッドはデッドラインの前日ついにパートナーを見つけるが、妻から次々と与えられる苦痛を受け入れがたくなったデイヴィッドは、ついに彼女を殺して「独身者の森」へと逃げ込む。
「独身者の森」は、独身者が排斥される社会から逃げ出して来て、独身主義を貫く人達の集まるコミューンである。ここでも厳しいルールのもとに皆が暮して居る。ご法度は「恋愛」で、もしも仲間同士で恋に落ちてしまうと、恐ろしい刑罰が待っている。
だがデイヴィッドは、「パートナーがいることが絶対的な社会」にウンザリして逃げ出してきたにも関わらず、「パートナーを作っては絶対にならない社会」で、恋に落ちてしまうのだった。

不条理な世界観に満たされた本編はおかしな整合性もあって、「覚醒」しながらヘンテコな夢を観ているみたいだ。夢の中では得てして、辻褄が合わないのに夢の中の自分は奇妙に思わないまま物語が進んでいくが、この映画を観ている間はまさに同じような感覚が味わえる。
描かれるのは、あらゆるパターンの人と人との関係性の形である。

アメリカでは「結婚」していない男性は信用されず仕事で高い地位に就くことが出来ないというような話を聞くが、日本の安部総理などの発言に代表される「良妻賢母」幻想なんかを思えば、あながちこの設定を嗤うことも出来ない。
逆に、「独身者の森」で思い出すのは「女の敵は女」的な(自民党の女性議員にも多い)、最近とみに耳にするようになった日本の職場状況についてだ。
現在職場で高い位置についている女性には、仕事のために結婚や子供を持つことを犠牲にしてきた人が少なくない。だから、下についている女性部下は「結婚」「出産」することで目の敵にされ、良い仕事を与えて貰えなくなった結果ついに退社する、というパターンが頻繁に起こっているらしいのだが、まさに「独身者の森」を率いる女リーダーが「愛し合ってしまった」仲間に与える強烈な制裁に似たものを感じる。
(これは上司の方にも言い分は沢山あるはずで、むしろ悪の根源は一向に政策が進まない日本社会にあるのは明らかだ。女性が仕事も結婚も育児も全部あきらめなくてもいい台湾では、また違った見方があるかもしれない。これを観た台湾の人が居たら、そのあたりを聞いてみたい)

恋に落ちた二人は、異なるヘッドフォンで違う音楽を聴きながら二人の動作を合わせてダンスさえ踊れるようになる。独身者の仲間に見つからないように、お互いだけがわかるジェスチャーで愛を交わす二人。が、やがてその関係は女リーダーの知る所となる。
結局どちらの社会でも暮すことが出来ない二人がたどり着いたのは、「盲目」の世界であった。

Love is blind、「愛」は「盲目」にならなければたどり着くことができないのか?
「愛」のために「盲目」になれるのか?
この疑問は恐ろしい。恐ろしいけれど、もっと恐ろしいことがある。この映画は「コメディ」なんである。
確かに、愛も、生も、死も、夢が覚めてしまえば笑い事でしかないのかもしれない。

それでも、わたしたちは時に「盲目」に、なるしかない。












2016年3月25日金曜日

【台湾映画】只要我長大 ~ただ大きくなるっていうのも、なかなか大変なのだ。



往々にして、大人が与えたいものと子供が欲しいものとは違う。
じぶんが子供をもってつくづく痛感するのは、親の仕事は子供が「独り立ち」するのを手伝うということでしかないが、一見単純にみえるそんなことが、なかなか難しい。親としての欲得とか思い込みとかメンツが入り交じる。タイミングを間違える。ただ抱きしめれば良い時に、有機野菜を使ったスープとか作ってて忙しいみたいな。


とある奉仕団体の活動で、貧困家庭の子供と一緒に食事をする場面に居合わせたことがあるが、どこのテーブルでも子供の箸はそう進まず、大量に料理がのこった。大人はみんな不満そうな顔をしていた(せっかく腹いっぱい食べられる機会なのに、とでも言いたげな)。
子供からすれば、丸テーブルで囲む野菜たくさんの伝統的で地味な色合いの台湾料理は真っ平で、ケンタッキーやモスバーガーのほうが喜んだのかもしれない。
いまどき、明日の食べるものにも困るというような貧困家庭は全く無いとは言わないが、それよりも問題はもっと複雑なんだなあと映画を観ながら考えた。

映画の舞台になるのは、美しい山間の台湾原住民タイヤル族の部落である。
風光明媚な場所だが仕事はすくなく、街に働きに出るか、部落に残って農作物を育てるのが主な収入源だ。台湾の原住民部落は大抵、山の中にあって災害も多く、生活が大変な地域が少なくない。主人公である3人の子どもたちは、そんな環境のなか、たくましく暮らしている。

ひとりは両親がおらず、祖母と暮らしている。最近都会から兄がかえってきた。
ひとりの父親はバンドマンだが、酒乱でいつも問題を起こしている。
ひとりは父親と暮らし、母親は離婚して台北にいるらしい。

福祉団体から送られてくるモノが古いパソコンなので不満だったり、台北の母親から送られてくる洋服のサイズが小さかったりと、子供の欲しいものと与えられるものとの齟齬が要所要所で描かれる。これは、大きくみれば政府の原住民や低収入層への政策にそのまま当てはまるのかもしれない。

親はなくとも子は育つ、という言葉がある。
下半身の不自由な先生を想う子供たちの心は純粋で優しいが、そのまま大きくなればいずれは犯罪に手を染めることに成るかもしれない危惧も用意されたラストシーンは、「ただただ大きくなりたい」というタイトルについて深く考えさせられる。

新竹の山奥には、部族としてプライドを取り戻し規律を守って昔ながらの生活を送る、日本の「ヤマギシ」みたいなコミューンを作って成功している部落の例もあり
(「司馬庫斯部落」 https://www.youtube.com/watch?v=FU8Xds5xXwo
一つのロールモデルとなり得るかもしれないが、これも上からの押し付けではなく自分たちで決めて実行することでなければ意味が無い。



いま世界的に肥満や糖尿病が問題になっているのは、特に貧困層に多いという。ひとつのリンゴを買うよりも、ハンバーガーを買うほうがずっと安上がりだからだ。
数年前、日本の某女性政治家が「ホームレスが糖尿病になるぐらいだから生活保護予算はカットするべき」という趣旨のものすごく的外れな発言をしてネット世論の怒りをかっていたが、それぞれのケースに見合った政策を考えて行かなければいけないというのは、どこの国もが直面している問題なのかも知れない。


※(追記)
このブログを書いた翌日に、蔡英文新総統のこんな政策発表が。タイムリー。
http://mobile.n.yam.com/m/news.php?id=20160323621937

要約すると、四月以降は以下三つのことに重点を置いた原住民部落政策を実行するとのこと
・部落の自然環境の保護
・部落をささえる産業の発展
・それぞれの族語教育の強化

「元々この土地の主人である原住民に対する政策は、何を置いても優先されるべき事柄」









2016年3月17日木曜日

【台湾映画】那時此刻~The moment


「アートは時代のタイムカプセルだ」
と、いみじくも言ったのは、たしか都築恭一さんだったと思う(都築さんにどういう肩書きを付けたらいいかわからない。写真家とも編集者とも、一つの肩書におさまり切れない人だ)。
そういう意味で、アートには時代の空気がそのまま真空パックにされて閉じ込められている。
時を経て見返しても、その時代を確かに反映していると同時に、普遍的な「なにか」を提示してくれたり、違う角度からの眺めを提供してくれる。
よいアート作品はそういうものだろうと思う。
自分がどうして映画が好きなのか考えてみたとき、その「真空パック」がより端的に表れているところにある気がした。

実は、初めて「台湾映画」を意識して観たのは結構最近のことで、作品は「悲情城市」だった。
まだ結婚する前で、東京に住んで居たときに今の夫が近所の「日の丸ビデオ」で借りてきてくれた。
恥ずかしながら、それまで台湾について丸きり何も知らなかった。夫は「これを観たら、わたしのお父さんやお母さんの気持ちがわかるよ」といった。
後で知ったことだけど、ト二―・レオンは台湾語も日本語も喋ることが出来なかったので、聞こえず喋れない人物設定になったらしい。
それが見事に、押し黙って運命に翻弄されてきた台湾の人々の気持ちを表しているようで心がふるえた。
偶然の必然。そういうものを、日本映画界の人たちは「映画の神様が降りてくる」って呼んでたな、そういえば。

そんな「映画の神様」が降りてきていた時期の台湾映画を観ていくうちに、台湾映画が好きになった。映画を観ることで知れることが沢山あったし、台湾を身近に感じるようになった。
いま台湾に来てからちょうど10年目になるけれど、10年という期間の割には、台湾社会のこれまでについて外国人なりに知ってるほうではないかと思う。
そういうものは殆んど、映画を観て学んだ。


そして昨日、「那時此刻~The moment」を観に行った。
金馬奬の歩みを描いたドキュメンタリー映画だ。
「金馬」と「金の馬(golden horse)」が、実は元々なにも関係ないこと、そして授賞式が何故10月末に取り行われてきたかという、ちょっとした映画ファンでもあんまり知らなかった事実がまず明かされ(わたしもコレを観て初めて知ったのだが、ウィキペディアをよく読むとちゃんと書いてある)、それから、台湾語全盛時代を経て國語(北京官話)映画時代の到来、抗日映画時代から台湾ニューウェーブと、台湾の複雑な世情を反映しながら作られてきた、この50年あまりの流れが紹介される。
ここで明らかにされるのは、台湾映画の歴史において多くの時代に「映画の神様」は降りてきていなかったということだ。そんなとき金馬奬に輝いたのは、香港映画であり、シンガポール映画であり、中国映画だった。
アンディ・ラウ(劉徳華)の言葉がひどく印象的だった。
「何十年もこの金馬に来ているから、台湾映画が輝きを失っていた時期を良く知ってる。それが、今度は香港にまわってきた、これからは僕たちが頑張る番だ」
こんな内容だったと思う。

たしかに、今の香港の状況をおもえば、本当に映画と社会が切っても切り離せないものというのがよくわかる。近年の台湾本土派映画(國片)の盛り上がりをうけて、去年は台湾映画ファンにとっては、台湾映画が金馬奬で沢山賞を取った嬉しい年となった。その前年が中国映画ばかりだっただけに、嬉しさもひとしおで。
金馬の女神のようなシルビア・チャン(張艾嘉)の笑顔も一際輝いていた。


さて、今年。
台湾に初めて女性の総統が生まれる。
彼女の進む道はきっとイバラの道には違いない。
けれど、それがどんな風にレンズに映りこむのか。ドキドキするけれど、たのしみでもある。
とっても。
あのテーマソングを聞くと胸が高鳴る。
このタイミングで、このドキュメンタリーが観られたことに感謝したい。


我一直支持台湾電影。
台湾加油、加油台湾電影!


2016年3月16日水曜日

【お知らせ】JTBパブリッシング「ソロタビ台北」


ライターとして一部、取材・執筆させてもらったJTBパブリッシング「ソロタビ台北」が出版されました。

女子の一人旅がテーマのガイドブックでホテルなど中心にいろいろ巡りましたが、個人的に泊まってみたいと思ったのは、大安森林公園近くの「the corner house 安居」と民生東路の「Cozzi和逸」。
そのほか台湾料理教室の紹介や雑貨屋・茶芸館もしっかりおさえられており、女子ひとりでなくとも使い勝手よさそうな本になってます。
オススメ。

2016年3月14日月曜日

【お知らせ】エバー航空機内誌「en Voyage」3月号


エバー航空の機内誌「en Voyage」3月号にて記事を執筆させていただきました。テーマは昨年末取材に行った、嘉義の故宮南院オープンについて。
色々ゴタゴタあった南院のプレオープン、それはそれで興味深くもありましたがここではモチロンそんな事には触れず、嘉義の歴史に重ねられた展覧内容について書いています。
エバー航空ご利用の方は、ぜひチェックしてみてください☆
機内誌に書くのは、秘かに夢のひとつでした。これからも台湾に関しての美術工芸への造詣を深めてご紹介していけたらと思っています。



2016年3月9日水曜日

【邦画】岸辺の旅~黄泉の川べりをさまよう旅


特別おもしろかったり怖かったりした訳ではないのに、どこか不思議でしばらく頭の隅っこに残っている夢というのがある。
もしくは、何だか奇妙でどうも忘れられない伝説や神話。
不死になったすえに蝉に変えられた男とか、白鳥を抱き留めたら妊娠したとかそういう類の。。。
「岸辺の旅」(2015年/黒沢清・監督)はそんな映画だった。観たときは大して深く何かを思った訳ではなかったのだけど、あとから引きずっている。何でだろうと考えてみた。


瑞希(深津絵里)が夜に何故か白玉作ってたら幽霊の夫(浅野忠信)が現れたりとか(現れ方がすごい。幽霊にしか見えない!と思ってたら本当に幽霊だし)、夫の愛人だった蒼井優演じる朋子の笑顔とか(この蒼井優も強烈で、ご本人は存じ上げないけれど頭のいい人特有の意地の悪さがにじみ出ていて上手い)
ちょっとヘンテコリンなディテールが積み重なって映画は進んでいく。

現実から霊の世界に近づいたときに、舞台劇のように照明が効果を与える演出が取り入れられていて、そこには何かしらのルールがありそうなのだけれど、よくわからない。
死んで幽霊になってしまった忠信さん演じる優介を、見えてる人と見えていない人との基準がどういう風に設けられているのか、それもよくわからない。
映っているのは幽霊なのか、生きている人間なのか。
その世界は、瑞希の見ている夢なのか現実なのか。

境界を凡て曖昧にぼやかしたことで、神話や夢のような不条理さを映画に取り入れることに成功している。それが、この不思議な鑑賞後の感じに繋がっているのかもしれない。

欲を言えば、深っちゃんには潔くタップリ脱いでほしかったところですが。
夢で見る性行為って変にリアルだったりとかするでしょう、そんな感じで。。。

タイトルの「岸辺」は、三途の川のこちら側という意味だろうか。
想いをどれだけこちら側に残しても、誰もがいつかは渡らなければいけない川。
いつ渡るのか、いつ渡ったのか。
それは、渡った後にしかわからない。
そして渡る人を見送ることも、やっぱり簡単なことではないのだ。







映画「 The Revenant  蘇えりし者」(ネタバレ注意)


デビュー作「アモーレス・ぺロス」の音声解説で語られたらしい監督自身によるコメント
「人は失ったもので形成される。人生は失うことの連続だ。失うことでなりたかった自分になるのではなく、本当の自分になれるのだ。」
との言葉通り、「バベル」で言葉や気持ちの繋がりを失った人々を描き、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」では栄光を失った元・スーパースターを題材にとりあげたイニャリトゥ監督が今回描く「失ったもの」はズバリ「息子」である。

レオナルド・ディカプリオ演じるヒュー・グラスは、実際に1800年前後アメリカに実在した伝説的な猟師であるという。この映画も彼についての伝記小説をもとに描かかれているが、ヒュー・グラスがアメリカ先住民との間に出来た子供を殺されたという記述は今のところ見当たらない。


(実在したヒュー・グラスの似顔絵)


ということは、監督はわざわざグラスを「息子を失った父親」に仕立て上げたということだ。
イニャリトゥ監督は実際にじぶんの息子さんを亡くされており、デビュー作の「アモーレス・ぺロス」もその息子さんに捧げられた作品だという。

今回の「 The Revenant 」ではより具体的に「息子を失った父親の悲しみ」を入り口に、「失われていく先住民の文化や大地」について共感を深めていく作品となっている。
監督自身がメキシコ出身ということで、民族の文化や先住民族対白人の歴史について考える機会も多かったのかもしれない。この映画を観ているとと自然に世界の至るところで起こってきた「剥奪の歴史」に思いを致さずにはおられない。

わたしの場合、重ね合わせたのは台湾原住民の来し方である。
大航海時代の台湾はスペインやオランダの植民地だった。嘉義のあたりを中心に鹿皮の貿易がさかんに行われていたことも、先日、故宮南院の取材で嘉義に行ったときに知った。また映画「セデック・バレ」の中で、日本政府に協力する原住民部族と反抗する原住民部族とが争いあったエピソードも思い出す。
だから、先住民のひとりが「わたしは野蛮人」と書かれたフダを着けられ吊るされているシーンを観て「どっちが野蛮やねん」とおもわずツッコんだのは私だけではないはずだ。

圧巻は、ヒュー・グラスの伝説を不動のものにした、グリズリー(灰色熊)との格闘シーンだろう。もうこれは滅茶苦茶にこわい。
子供を守ろうとする母親熊から、ぶん殴られ、ひっくり返され、肉を噛み破られるその迫力はもうエゲツナイぐらい凄まじいの一言だけれど、あまりにも凄みがあるので、かえってこれは人生における「性愛」のメタファーなんじゃないかと思った。
アン・リー監督が「ラスト・コーション」の中で、男女の性愛をメタファーにして国家のパワーゲームを描いた、その逆バージョンみたいな感じ。

それにしても、熊との格闘以降のその「蘇り」っぷりが凄まじくて、もう本当にむちゃくちゃ痛々しいので観ながら「レオ様ほんとうにほんとうに、オスカーとれておめでとうううううううう!!!」
と喜びが沸き上がってくる。
痛くて、苦しくて、悲しくて、虚しくて、でもちょっと嬉しい映画なんである。





















【お知らせ】「な~るほど・ザ・台湾」3月号






「な~るほど・ザ・台湾」誌にて隔月で書かせてもらっているコラム「台湾の街角」。3月号では、かつて鉄道が走っていた名残を残す汀州路について書いています。見かけたらぜひ手にとってみてください〜☆