2015年8月29日土曜日

好兄弟とお中元


旧暦7月15日の今日は「中元節」。
道教では「中元普渡」、仏教では「盂蘭盆(うらぼん)」と呼ばれる施餓鬼会(せがきえ)です。
この日は一年の中で一番盛大なお供えものをして、鬼月の間に地獄から出てきて彷徨っている好兄弟(無縁仏)の霊をもてなし、紙錢を燃やして冥福を祈ります。街中で一斉に大量の紙錢を焼くこの日は一年の中でもとくに空気が悪い日なのですが、今年は、一日中降りつづけた雨のおかげであまり影響はありませんでした。


そもそも、道教の最高神・玉皇大帝には三人の兄弟がおり、この中元の日は三兄弟の中のひとり、地官大帝のお誕生日に当ります。
それを昔、身寄りのない寂しい魂を憐れにおもった地官皇帝が
「自分の誕生日は祝わなくて良いから、無縁仏の魂を祀るように」と仰せになったことから、中元の拜拜(バイバイ)は現在のような形となりました。

この日の特色は、お供え物と一緒に水を張った洗面器とタオルが置いてあること。
さまよい疲れた好兄弟に身づくろいして疲れを癒してもらいます。
所によっては、鏡やクシ、石けんや歯ブラシなどを供えるところも。


この風習が日本に渡り、いつしかお世話になった方への贈り物の習慣として定着したのが「お中元」です。






2015年8月28日金曜日

台湾映画「醉・生夢死」~ 一期は夢よ、ただ狂え 




なにせうぞ
くすんで
一期は夢よ
ただ狂え

室町時代の歌謡「閑吟集」のなかの歌だ。
この夏に台湾で公開された映画「醉・生夢死」を観ていて、そんなのを思い出した。



夜の飲み屋でママをして二人の兄弟を育ててきた母親はアル中で、仕事が終わっても日がな一日飲んでいる。
台湾大学を出た優秀な兄の上禾は、母親の反対を押し切ってアメリカへ留学。弟の「ネズミ」(老鼠)だけが、呑みすぎの母親を心配してちょくちょく帰って来る。母親は、出て行ってしまった兄のことばかり心配している。


時は過ぎ、川沿いに建てられたボロボロの集合住宅の中に、ネズミは兄と従姉とその彼氏と同居していた。
どうやら母親は死んでしまったらしい。
ネズミは身体に刺青をいれてチンピラを気取り、市場の野菜売りの手伝いをしながら酒を飲み、いつもホロ酔いだ。
母親が亡くなった後にアメリカ留学から帰ってきた兄はゲイで、自殺未遂をしたが死にきれず、日々西門紅楼のあたりのハッテン場をうろついている。
ネズミにとってのスターは、従姉の彼氏の仁碩。
「アニキ」と呼んで慕い、部屋にはブロマイドを大きく引き伸ばしたポスターまで貼ってある。仁碩アニキの職業はホストで、同居人にもお構いなしに家ではセックスばかり。
ネズミの彼女は、援助交際で日銭を稼いでいて、喋ることが出来ない少女である。


なんか、こう書いているだけで気分が沈んでくる欝設定だけれども、本当にそんな「やり切れない」話だ。



日本語の四字熟語にもなっているタイトルの「酔生夢死 すいせいむし」という言葉を、辞書で引いてみるとこんな言葉が出てきた。

ただ生きただけのむだな人生についていう。
酒に酔ったような、ゆめを見ているような心もちで、ぼんやりと人生をおえること。
(三省堂/新国語辞典)



社会の隅っこで、あくせくと、またはボンヤリと人は生きて死んでいく。どちらにせよ、どうせいつか同じ場所に帰っていくのだ。
自分の手に蟻をのせて動きを追うというネズミの遊び(というか唯一の趣味)は、大いなる運命の手の上で弄ばれるちっぽけで弱い存在である自分を見つめているようだ。だから、ネズミが蟻にかける言葉は優しい。死にかけのドブ鼠を見かけたときにかける言葉も優しい。
自分よりもさらに社会的弱者である彼女にも、優しい。


登場人物が夢心地に酔いどれて映画が進んでいくについれて、兄の家出の原因やネズミのトラウマ、仁碩アニキの背景が明らかになってきて、それを元にすべてが破滅へと向かう。


終盤でネズミは、川岸に下りていく。
川岸に行くと、死んだはずの母親が待っている。
酔って兄の姿しか映していないように見えた母親の目に、今は自分の姿も優しく映し出されている。
映画はそこで一度途切れ、いつもの市場でネズミが野菜売りを手伝っているシーンに戻る。いつもと変わらない風景。
そこに、喋ることの出来ない彼女や仁碩アニキも登場して、挨拶を交わす。


その市場は恐らく死後の世界である。


あの世でも、相変わらず人々はあくせくボンヤリと、この世と同じように生きている。
映画には描かれていないが、きっと母親に手を引かれてネズミは川に入り死んだんだろう。
それを匂わせるのが、ネズミが川岸に下りる前に、自分の大事にしていた蟻と母親の酒瓶とを外の塀の上に置き去るというカット。酒瓶は母親の、蟻はネズミの執着をあらわすメタファーである。
そこに見えるのは、「死」だけが人を執着から解放してくれるという哀しい人間の業みたいなものだ。


印象的だったのは、ネズミが夜の川べりで強い酒を地面に撒き、彼女を喜ばせようと見せてあげる風景。
撒かれた酒に火をつけると、青い炎の「LOVE」という言葉が現れる。
母を殺したアルコールが燃えるその中に、マッチ売りの少女宜しく「愛」を見い出しても、それは儚くすぐ消える。何とも悲しくて美しいシーンだった。


さて映画は最後に、「あの世」と思われる市場(ワタシの勝手な解釈ではあるが)で仁碩アニキがネズミに「ちょっと休憩してくるわ」と挨拶して市場を離れ、家の暗い廊下を通って、向う側にひかる明るい出口を目指して歩くところで映画は終わる。
恐らく廊下は母親の胎内を表しているのだろうし、仁碩アニキが「休憩してくる」というのは、またコチラの世に生まれてくるという事なのだろう。
とにかく、この映画のあらゆる場面で「母親」というものへの喪失感が繰り返し描かれる。
「母親の愛」とはつまり見返りを求めない、ただ自分を包んでくれる存在ということだろう。
これって監督の胎内回帰願望なのかしら。


実はこの張作驥監督、脚本家の女性をレイプしたとして起訴されて、裁判中にこの作品を撮った(すごい精神力だ)。
しかし完成後に刑が確定し、この6月の台北映画祭で六部門を受賞したにも関わらず服役中で監督不在という異様な授賞式となった。
本人は無罪を主張していたらしい(物的証拠があるレイプの無罪というのはつまり合意のもとで、っていう主張なのだろう)。
で、映画を観た後にこれらの事を知って思ったのは、正直、胎内回帰したいなら映画の中だけにしてくれよ、ってことである(笑)


映画の舞台は公館にある「寶藏嚴」という寺の脇にある集合住宅で、候孝賢(ホウ・シャウシェン)監督の映画のロケ地としても有名だ。

太平洋戦争後、台湾の各地に国民党と一緒に中国から渡ってきた人々による違法建築の住宅群が建てられて、それらは「眷村」と呼ばれた。
この「寶藏嚴」もそんな「眷村」的違法建築群のひとつで、日本統治時代には弾薬庫だった場所だ。日本が戦争に負けて台湾を去ったのちに、国民党軍の下級兵士やその家族が住み着いて増築を繰り返した。
戒厳令時代が終わって中国と台湾の外交が再開するまで、30年以上も故郷に帰れなかった人々の想いの気配は今も色濃く、わずかに残る住人の洗濯物が過去と現在の間をはためいているような、台北の歴史のエアポケットである。
取り壊される瀬戸際だったが、歴史的価値が注目されて保存運動が起こり、芸術村として生まれ変わった。今は台北市管轄の史跡で、アーティスト・イン・レジデンスとして各国から若い芸術家が集まる。

2015年8月24日月曜日

湾生の画家・立石鐡臣と七夕


今年の旧暦七夕は8月20日。

現在はバレンタインデーに並ぶカップルイベント的お節句「情人節」になっているけれど、元々台湾では福建の風習から来た「七娘媽生」または「乞巧節」と言って、色々なお願い事をしたり、お裁縫が上手になるようにお祈りしたりする日だったらしい。
例えばおしろいを撒いて自分の顔に当たったら美人になるとか。

七娘媽は日本でいう織姫のことで、機織りやお裁縫などの家事がすごく上手だったのが彦星(牽牛星)と出会ってからは色ボケしてしまって何もしなくなったから玉皇大帝の怒りをかって別れさせられ、七夕の日だけ会えるということで、この辺は日本と一緒ですね。

面白いのは七夕の雨に対する言い伝えが各国で違うらしいことだ。

日本→雨が降ったら会えない
台湾→別れを惜しむ涙のため夜ふけに雨が降る
韓国→出会えた嬉しさで号泣するので、必ず土砂降りになる



冒頭にアップした絵を描いた「立石鐡臣」は「湾生(わんせい)」、つまり日本統治時代の台湾で生まれた画家である。
昔ながらの台湾習俗に関する「台湾民俗図絵」を沢山遺したことで、台湾では知られている。
この習俗、多分いまの台湾人だって良くは知らないことが沢山含まれていそうという意味でも貴重だ(この七夕の御節句のことだって知らない人は多いと思う)。


ところで、今年の5月に銀座の泰明画廊にて「立石鐡臣」のはじめての回顧展が開催されたらしい。

そのページで絵をみていると、「何で今までこの人のことを知らなかったのだろう」っていうほど、素晴らしい。
日本では今まで全く知られて来なかった画家なのだから、無理もないのだけれど。

師匠である梅原龍三郎やゴッホに強く影響されたような油絵を描いた時代を経て、梅原のすすめで台湾に渡り、民藝的な庶民の習俗を記録する「台湾民俗図絵」に参加して、数々の木版画を残したが終戦。
引き揚げ後も、意欲的にシュールレアリズム的作品を描いたほか、戦前に描いた「台湾民俗図絵」を元にした漫画的な作品などを発表(これめっちゃ見たいですが)。
日本の戦後のボタニカルアート(植物・昆虫図鑑)の発展にも寄与している。

民藝の絵はもちろん昆虫の絵も好きだけれど、70年代の作品もすてきだ。
あの須之内徹氏の、

立石さんの忘我の時間が伝わってくる。そしてじっと見ていると、黄金中の一匹一匹、蛾の一匹一匹ひとつの宇宙になる。その感じの不思議さを、私は体験としか言えない

という評を読んで、わたしが言いたい全ての謂うべき言葉を腹から全部もぎ取って行かれたと思った。
  いま楽しみなのは、台湾の女性ドキュメンタリー映画監督・郭亮吟さんがつくった「湾生画家・立石鐡臣」。
郭さんは2006年の「緑的海平線」という、太平洋戦争中の戦闘機製作に携わった台湾の少年たちに取材した作品で台北映画賞ほか数々の賞を獲得した。

立石鐡臣の再評価は、いま始まったばかりだ。






泰明画廊/立石鐡臣展
http://www.taimei-g.com/artist/tateishi/tateishi.htm








2015年8月21日金曜日

レモンの花嫁

今年も、天母に住む友人Yさんの庭になったレモンをいただいた。

先日の台風の凄まじく凶暴な風にも、耐えたエライ子たち。
どっしりと無骨なルックスなくせに、中心から発光しているような黄色をしてホンノリ薔薇の薫りもする。
今まで見てきたレモンと随分おもむきが違うので、初めて観た時はかなり感激したが、今でも毎年会うたびに驚きがある。神話に登場するレモンもかくや、と思わせるようなレモンだ。
(これを贈ってくれるYさんがなかなかお目にかかれないぐらい美しい女性である、ということも幾分関係するかもしれないけれど)

神話に登場する・・・というところで、そういえばレモンが登場する神話的なお話を、あまり知らないことに気がついた。
しらべてみると「レモンの花嫁」(もしくはオレンジの花嫁)というエジプトの昔話に興味を惹かれた。

とあるエジプトの王がやっとのことで王子を授かった。
ある日、王子が自分の手をナイフで傷つけてしまう。王子の血はミルクに落ち、ミルクは薔薇色に染まった。その美しさを見た王子は、「こんな肌をもった女性を探しに行く」と言って城を出てしまい、王は悲しむ。
理想の女性を探して終に地の果てまで来た王子は、三人の魔女に会って、それぞれ「死」「生」「誕生」を象徴するレモンを授かった。国に持ち帰って三個目の「誕生」のレモンを王子が切ったとき、そこから薔薇色のクリームのような肌をした金髪で碧い瞳のうつくしい女性が現れたという。

これ以降も話はごちゃごちゃ続くのだが、ここまで来て、


「あれ?これって『王家の紋章』?」

って思ったのだけれど漫画も手元に無く今は調べようがない。ただ、メンフィスがナンシーに会った時に「伝説の金髪の乙女」とか何とか言っていた覚えがあるので、この「レモンの花嫁」話にもとづいているのかもしれない。

ともかく、果物を切ったら佳人が出てきてという話は、日本でも「桃太郎」やら「瓜姫」やらが思いつく。三つの決め球を戴く話なら、ウチの子が大好きなむかしばなし「三枚のおふだ」から、イザナギノミコトが死者の国から逃げるとき三つの桃を投げながら逃げた国造りの話まで枚挙にいとまがない。
世界の民話を耳にするにつけ、昔ながらの民話こそが「グローバル」だったと驚かされる事は多い。それぞれの土地に語られて降り立ち、人々の身体に染みこんでから、その土地の物語として語られる、そのぐらいの時間が本来の「グローバル化」には必要なのかもしれない。


そうそう、「檸檬」といえば、アレだ、祝・京都丸善復活♥





(エジプトの民話はこちらを参考にさせてもらってます:http://members.jcom.home.ne.jp/tink/botan/flower1/hana3ragyou.htm)

2015年8月17日月曜日

最近のSAKETIMS記事より



SAKETIMESにて、先日たなばたの夜に行われた、「山口の銘酒・五橋と夏のお料理のゆうべ@山口湯田温泉・割烹ひさご」の模様を書かせて貰いました。

http://jp.sake-times.com/special/report/sake_g_gokyouevent

2015年8月16日日曜日

台北のY字路⑭~陳さんのお盆



きょうの布袋戲(プータイシ)のあるY字路。

これから一ヶ月続く「鬼月」を無事に終えることが出来るよう、いつも近所の「大学公園」の氏神様のところで祭礼があります。

太平洋戦争が終わって日本人が去り、住んでいた和風家屋は国民党に接収されたので、台北帝国大学関係の日本人が多く住んでいたこの辺りは、戦後に移民してきた外省系の人々が多く住むエリアとなりました。
その中に一部、温州街の大学公園がある辺りには昔から本省人が住む場所があり、「台湾人村」と呼ばれていたそうです。人々の姓を「陳」といい、「台湾人村」の中心に辛亥路が開通すると共に散り散りになりました。
本来、「大学公園」にある「白霊公」は陳一族の祖先を祀る廟でした。現在はこの地域の氏神さまとして祀られていますが、この時期には陳家の末裔も集まってきて、地元の人々と共に祭りを行います。つまり「お盆」です。

時は古く、ここ大安区が「大湾」と呼ばれていた清・乾隆帝の時代。
福建省安渓から海をわたってきた移民の人々によって、この湿地帯は開拓されました。

大安区の開拓民の中で財を興した家の一つ、「陳氏」は、現在の「自来水」裏側の芳蘭路✕基隆路あたりに、当時の伝統的な中国式建築である三合院の住居を建て、「義芳居」と名づけました(現在は古蹟)。
その子孫たちが大安区内に散って居を成した、そのうちのひとつが、現在の温州街にあった陳家の「台湾人村」であったようです。

陳一族のお墓は、始めは西門町一帯にあったものの、日本人の都市計画により西門の地を追われ、華西街→華江橋と次々に已む無く場所を替えます。そして終に、いま台北市の公共葬儀場(第二殯館)がある辛亥路三段の脇に「萬善堂(地蔵王廟)」を建て、漸く安住の地を見つけました。
その地域の町内会長である陳氏の子孫が毎日焼香をし、お茶を奉じて世話をしていますが、とある日、いつものお茶を忘れて立ち去ろうとしたところで、背後から「お茶はどうした?」という声がしました。それ以来、毎日お茶を絶対に欠かさないようになったということです。

伝統のある廟(寺)の祭礼には、大体、移動トラック式の劇団が呼ばれます。
かつては何人も登場するような豪華な「歌仔戲(台湾オペラ)」が呼ばれたものですが、近年はひとりの出張で出来る「布袋戲(人形劇)」に変わりつつあるようです(声は録音)。

人形劇が呼ばれるだけでもまだ良い方で、台北のいろんな場所で行われているこういった伝統的な風習は、だんだんと簡素化がすすんでいます(日本でもおなじですね)。




2015年8月15日土曜日

鬼月おぼえがき


さて、きょう旧暦の七月一日より始まった「鬼月(グエユィ)」。

地蔵王大王(日本でいう閻魔大王)がこの世と地獄を隔てる「鬼門」をひらき、あの世より「好兄弟(ハオションディ)」と呼ばれる亡者たちが、こちらに戻ってきた


鬼月は次の新月までの一ヶ月続き、そのあいだ、台湾ではいろんな「禁忌」がある。
大きなものでいえば結婚や引っ越し、不動産取引だが、他にも細かく「避けたほうが良いこと」が色々とある。

たとえば、

1.赤い服赤い色はあの世と通じ合う色なので、なるべく避ける。でないと、好兄弟にまとわりつかれやすく、疲れやすい。また大事なときに力がでない。女性の赤い下着はとくに避ける

2.夜に服を干さない(好兄弟が自分の上着だと思って居付く)


3.ひとりで海に行かない(日本ではお盆に海に入るなと言われるが、同じ理由)


4.夜10時の公園や山の上には行かない
(好兄弟が集まっているから)


5.路上に落ちてるお金を拾わない
(好兄弟のものかも知れないから)


6.後ろをむいて歩かない


7.肩から上の写真はなるべく撮らない。
(人間の身体のうえには三つの火が灯っているとされているが、写真を撮られるとそのひとつが消え、好兄弟に身体を乗っ取られてしまうという)

8.夜遅くに家人の名前を大声で呼ばない


9.壁に寄りかかりながら歩かない(好兄弟は壁と服をくっつけて休むことをこのみ、仲間と思われるから)


10.一人でいるところで、肩を叩かれたりフルネームを呼ばれてもぜったいに振り向かない


11.出来るだけ最終バスに乗らない

12.好兄弟が好む口笛を吹かない

13.ごはんに箸を建てると、好兄弟がじぶんに分けてくれたと思い寄ってくる
(箸を立てるのは香炉に線香を立てることに通じ、死者へ食事を奉るときの作法である)

14.風鈴を家の中の色々なところ(特に枕元)にかけない。
(風鈴は、好兄弟の好きな「陰」の気を誘う)

15.老人や子供など比較的からだの弱いものは、夜の外出を避ける




などなど。



さて、寝苦しい夜が、いくらか涼しくなりましたでしょうか・・・?

2015年8月12日水曜日

台北のY字路⑬(師大路)




きょうのY字路。

師大夜市で有名な師大路の、真ん中に見える「師大公園」。
別名を「撿屍公園」とも呼ぶらしい。
撿屍体」というのは、悪い外人(とは限らないかも)が女の子に酒を飲ませて前後不覚にさせてからチョメチョメしちゃうという意味のクラブ用語だ。
いわゆる「マグロ」ってやつですね。しかも「まな板の上のマグロ」。
「死体拾い」なんて、上手いこと言いよるなと思いましたけれど。


戦後、師大商圏の龍泉街付近には違法のバラックが建てられ露天商が立ち並んでいたという(師大公園前にあるボロボロのバラックの錠前屋なんかは当時の名残なんでしょう)。
それが大きく整理されて作られたのが、現在の師大路および師大公園だ。
そもそもこの一帯は、昔から文化の香り濃い「城南区」(かつての台北城の南側にあたり、台湾大学や師大があることから多くの作家や学者、文化人が暮らしてきた)の中心である。
2007年ごろから衣服やアクセサリーの露店商が多く集まるようになり、作家の韓良露(過去のエントリー「永遠になつかしい〜韓良露さんのこと」参照)はここを「南村落」と名付け、台北の飲食文化や生活スタイルのリーダー格的な場所として打ち出す。
しかしこれが、旅行番組や雑誌で「台北の美食とファッションの一大メッカ」として取り上げられ多くの観光客を惹き付けた結果、深夜まで外国人が馬鹿騒ぎする飲食店が増え、不衛生になって、街の環境悪化に繋がった。それが冒頭の「検屍公園」といわれるまでの事態に発展していく。

その酷さは、朝方に師大夜市付近を歩いたことが有る人ならわかると思う。
腐った食べ物とゲロと尿と下水の入り混じったにおい。
東京の麻布十番に暮らしていた頃「十番祭り」の翌日の街は決まってそんなにおいだったが、それが一年365日毎日続くとすれば、逃げ出したくもなるというものだ。
しかも、折しも台北の土地の価格が二倍三倍とウナギ登りに上昇していた時期で、環境のせいで土地の値段も上がらないとなれば、住民にすれば忸怩たる思いだろう。
ついに、2011年から付近の三地区の合同組織が作られ、違法な店や衛生悪化の原因となる飲食店の排斥を掲げて住民運動が巻き起こり、政府も介入する騒ぎとなった。


師大路の名前のもとになった台湾国立師範大学は、日本時代は「旧制台北高等学校」といい、元総統の李登輝氏も通った学校だ。当時の街の呼び名は「古亭町」。
1930年の地図を見ると、学校をぐるりと囲む疎水がY字路のちょうど先あたりに来ているのがわかる。


現在の師範大学には美術・音楽学部も設けられており、師大デザイン系の研究室が経営する「青田十六」は日本時代の木造建築をリノベーションしたギャラリースペースで、川島小鳥さんや「みさおとふくまる」の台湾初の個展も行われた。
政治的駆け引きの上手さから「王金平最強伝説」とも呼ばれる(というか勝手に呼んでる)与党の大物政治家・王金平氏もここ師範大学の出身だ。


さて、住民運動に話は戻る。
その後三地区合同組織のなかで内輪もめが勃発し、更には政治的汚職にも飛び火したことから組織は解散、おかげで師大夜市も存続する運びとなって、今にいたる。
それでも随分様相は変わったが、名茶館「小慢」に代表される美学を持った面白い店が現在も巷子の中にひっそりと営業をつづけ、故・韓良露さんの「南村落」の夢をいまに伝えているのは幸いだ。


2015年8月8日土曜日

台北のY字路⑫(南昌路)



きょうのY字路。

左側の南昌路はもともと台北城の南門から延びる由緒正しい道路で、戦前はこちらがメインストリートだった。中山路と繋がる右側の羅斯福路が戦後に大きく舗装されていく
真ん中にあるのは、天文台・天体望遠鏡関係の老舗貿易会社である「永光儀器」のビル。

ビル名の間には地球儀のレリーフがはいっている。


2015年8月7日金曜日

台北のY字路⑪(浦城街・1)

きょうのY字路。

師範大学の裏手・浦城街。
台北では比較的早い時期からベルギービールを置くカフェや多国籍系の料理屋ができたエリア。


水源地からほど近い公館から中正記念堂までの羅斯福路沿いには、かつて台北市内に水を運ぶ多くの水路が走り、この一帯(浦城街・同安街・クーリンチェ)に残る迷路の様に複雑な地形もその影響を受けている。
浦城街も少なくとも1930年までは一部が疎水だったようで、その名残がこのY字路である(ちなみに疎水だったのは右側の道)。
ところで、冒頭の写真では路駐の車(本当に台北どこも路駐だらけ)に隠れて見えないのだけれど、Y字の切れ込み部分に、植え込みに隠れた石碑のような石を見つけた。
円すい形でずんぐりとして、どちらかと言えば日本の庭石のような雰囲気だが、字などは特に書かれていない。

じつは台北でY字路探しを始めた時から、期待しているものがあった。
それは「石敢當(いしがんどう・いしがんとう・せっかんとう)」と呼ばれ、T字路や三叉路の突き当りに置かれる魔除けである
というのも、街のなかを徘徊している魔物は直進する性質をもつ。
二叉路・三叉路で曲がる事が出来ない魔物は、直進して突き当りの家に入っり悪さをするが、「石敢當」を置けば打つかって砕け散ってしまうという。
日本では鹿児島や沖縄に多く見られるらしいが、元々は中国・福建から伝わったという。福建からの移民が多い台湾なら、かならず「石敢當」もあるに違いない。
そう期待してきたのだけれど、このY字路に来るまでそれらしきものはなかった。
しかし通常は、石に「石敢當」と書いてあるのが標準らしいので、この石が果たしてそうなのかはわからない。
「石敢當」の名の由来は、古い中国の五代の時代・晋の国にあった勇士の名前とも、力士の名前とも言われているが、明確な根拠はないようだ。



2015年8月6日木曜日

台北のY字路⑩(赤峰街)



きょうのY字路。
台北のはじまりである淡水河流域の「艋舺(モンガ・現在の萬華区)」に続いて水運により発展した大稻埕」エリアの中にある中山・赤峰街。情緒あるレリーフやタイルの埋め込まれたコロニアル洋式建築の機械部品問屋・修理工場が立ち並ぶなかに、ポツポツと感じのよいカフェやギャラリーが顔を覗かせて、最近はお洒落スポットとして注目を集めている。
その裏手には、思ったとおり良いY字路があった。例によって屋上に増築された赤と緑のプレハブと、洗濯物の対照がポップさを醸し出している。
写真右手の道路は、承徳路二段37巷。

                 1928年の職業別地図



1903年の地図


1928年の地図では現在とは無関係に道路が走っているように見えるけれど、それより以前の1903年の地図をみれば、現在の中山地下街R8出口あたりにあった池だか沼だかの水源から淡水川に流れ出る川の存在が、確実に現在のY字路に影響している不思議。
建成公園も、北側および西側の端と1,903年時の川の形が重なる。

この付近、日本統治時代は下奎府町(しもけいふちょう)と呼ばれ、現在の萬全街・歸綏街・太原路・承德路あたりが含まれた。下奎府町という名は、元々この地に住んでいた原住民・平埔族の部落名から取られた。部族名を「巴賽族」といい、アジアのフィールドワークで大きな功績を残した人類学者・鳥居龍蔵の撮影した巴賽族」の当時の写真も残されている。
巴賽族」は時代とともに漢化が進み、20世紀はじめに絶滅したという。






2015年8月2日日曜日

台北のY字路⑨(台北駅北門)


きょうのY字路。

1930年代の地図

1930年代の日本統治時代の地図そのままに、
清代に建設された城郭「台北城」の表玄関「北門」の目前に位置する、由緒正しく格調高いY字路


台北屈指のカメラ街でもあり、あらゆるメーカーのカメラがここで取り扱われ「撮影街」とも呼ばれるほかは、隣に台北郵便局の姿もあり、付近に銀行もおおく見つかるなど、かつての面影を色濃くのこしている。

「台北城」の門があったのは、北門・南門・小南門・西門・東門の5ヶ所だが、当時のままのこされているのは、ここ「北門」だけだという。
ふりかえって北門を見ると、ぽっかり口をあけたキャラクターみたいだ。
Yの切れ込んだ先端がちょうど口の穴へ吸いこまれている。



2015年8月1日土曜日

台北のY字路⑧(中山)




きょうのY字路。
呂桑(呂さん)食堂は宜蘭料理のお店。
永康街の本店でたべた、鶏のスープをゼラチンで固めて揚げたん、シャクってとろける食感がおもしろくて感激したなあ、そういえば。




呂桑食堂と横並びのY、つまり(十字ではない)四叉路。

この二階に、「茴香」というなまえの良いバーがある。
ここのY字と水路はあんまり関係ないっぽいけれど、この辺り戦前は川でぐるりと囲まれ、鉄工所や鋳造所が多く「キューポラのある町」的な場所だったみたい。
戦争でつかう、大砲やら弾なんかもつくったんだろう。
川が近かったから、材料や加工したものを運ぶのに便利だったのだろうけれど、台風の時や今日みたいなゲリラ豪雨の時なんか、浸水が大変だったろうね。 川を隔てたところは共同墓地で、今は公園となり高級ホテルが建ってる。





台北のY字路⑦(安和路)






きょうのY字路。
お洒落エリアの誠品書店敦化店うら、安和路(右側の通り)沿いのY字路。
二枚目の写真は、埋め立て前の1950年の地図と現在の位置関係を重ね合わせたもの。川と安和路が見事に重なる。
元は川だったのが後に埋め立てられた道路は、Y字路発生の重要な要素のひとつ。
この付近、現在の台北で最も洒落ていると言われるエリア「東区」の面影はまだなく、未開発で田畑が広がっていたようだ。
当時の地図中の赤く塗られた部分は建物をあらわしているが、現在、微風デパートを創設した一族所有の建物がある場所とかぶっている。いまは部分が残るだけだけれど、当時の台北城郊外での豪奢な、昔ながらの富裕的生活がしのばれる。