2015年4月25日土曜日

永遠になつかしい。〜韓良露さんのこと






トコロテンを押しだしたような土砂降り。
加えて朝の震度4からはじまり夜まで余震が続いた昨日の台北は、マグマの滾りがジットリ地上へ伝わったかと思うほど蒸し暑い一日だった。
それなのに今日の肌寒さといったらどうだろう。セーターもコートも、まだ片づけてなくて好かった。
「端午の節句まで冬モノ仕舞うな」といった昔のひと、アンタはエライ。

古来より一年の営みに欠かすことのできないお節句だが、さいきん気にかけている暦がもうひとつある。二十四節気、と呼ばれる一年を二十四種の季節に分けたものだ。
このあいだの雛祭りの日に子宮癌により57歳でこの世を去った著名な作家・美食家・エッセイストである韓良露さんの過好日的二十四節気生活美学~楽活在という本をめくる
えーと419日から21日だから「穀雨」か・・・。
なるほど。
その名の通り、穀物が慈雨を浴びていっせいに緑色の身体をのばす季節。一筋ごとの雨と一緒に今年の春がシモテに消えてゆく。カミテのカーテンの裏に夏は今かと出番を待っている。


ひところ雑誌の台湾特集でおなじみの「小慢」という茶芸館で働いていたじぶん、韓良露さんには何度かお会いした。
そのときは有名な作家さんと露しらず、ふくよかな外見・温かみのある笑顔の「韓小姐」という認識しかなかった。それが繋がったのは、先だって誠品書店で平づみされていた「台北回味」というタイトルの本が気になって購入し、著者近影をみたときだ。
あの人がそうだったのか・・・帰ってきた夫がテーブルに置いた本を見ていった。
「このまえ亡くなったね」
え、亡くなったの?
小慢の奥の長テーブルで南国の緑映える中庭を背にお茶をのむ、すだれ越しの韓小姐が脳裏に浮かびあがる。
本の帯には「永遠懐念、韓良露。」とある。

江蘇省出身の父親と台湾人の母親とのあいだに生まれた、韓良露さん。
台北とはなにか?と問われて簡単な答えはない。それは自分は何者か?と聞かれるに等しいからだ
という前文で始まる「台北回味」では、次々と姿をけす昔ながらの屋台やレストランの味・それにまつわる記憶・家族の歴史が情感ゆたかに描かれる。
戦後に中国大陸より移住してきた「外省人」と昔から台湾に住んでいる「本省人」は、同じ漢民族でありながら大きく異なるバック・グラウンドをもつ。
わたしの家族は当時台北の縮図そのものだった。二種類の世界、外省人と本省人の世界だ。彼らは異なるレストランに行き、異なるものを飲み食いし、異なる話をした。小さい頃に主流だったのは外省人の世界、しかし大きくなるにつれて本省人の世界が主流になった。わたしの味覚の記憶地図のなかでは、どちらの滋味も無くてはならないものだ。
日本教育をうけた両親のもとで育った母親にとって台湾式の日本料理はもはや「故郷の味」に等しかったが、逆に父親は日本料理屋にいくと食欲をなくし、店の外で手持無沙汰に煙草を吸っていたという。江蘇省出身の父親にとって、日本と戦った記憶はまだあまりにも生々しかった。
そして韓良露さんはつづける。
おかしなことに、母はすでに亡く70歳を超えて歯もぐらぐらするようになった父が、ときおり自ら日本料理屋に行きたい、とリクエストするようになった。時はほんとうに憎しみを溶かすのだ!刺身を口にした父が南京を連想することは、もうなかった。

韓良露さんは日本、とくに京都への旅行も愛した。
冒頭の二十四節気の本の「穀雨」の章では、以前この時期に祇園・鍵善でたべた黒蜜の葛きりの美味忘れがたく、台北に帰ってすぐ高島屋の源吉兆庵にて葛きりを買い求めたが似ても似つかないものだったこと、その後なんども鍵善に通ったこと、のちに中国・北宋時代の記録で葛きりのルーツと思われるものを発見し、はるか唐・宋の文化が今も日本・京都の地で雅やかな姿で遺されていることに改めて思い至り、感動したことが書かれる。
しかし喉をすべらかに流れるといって素朴ながら台湾スイーツも負けてはいないとワタシは思う。愛玉や仙草ゼリーの黒蜜がけに、杏仁豆腐。
「台北回味」のなかでは、昔ながらの台湾スイーツの味をまもる店がいくつか残っている夜市として円環夜市(いまの寧夏観光夜市)が紹介されている。しかし同時に、かつてに比べて味・景色ともに劣化の激しいこの夜市への嘆きと哀しみも記されている。
それを思えば、韓良露さんが初めて行ったのはいつの頃の鍵善だったろうか。わたしも10年ほど前に久しぶりに行ったけれど、いつの間にか全面改装されていて、テカテカ塗られた朱色に眼はチカチカ、むやみに席数が多く見知らぬ人との距離が矢鱈とちかいことには閉口した。
暗くてせまい階段をあがって口にした、黒蜜と黒漆が一体化した闇のなかに白魚のように透きとおった葛がトロンと沈んでいたかつての鍵善がなつかしい。時の流れと共にワタシ達はが確実に失っているのは「官能」だとおもう。


ところで韓良露さんは若いころ、文化人が多い大学エリア・温州街にあるアパートの最上階(頂加と呼ばれるアパートの屋上に不法で建て増しされた部屋で家賃が安いので学生に好まれる)に住んでいたそうで、どうやらそれは偶然にも現在のワタシの家と同じ路地の中であるようだ。
それを知って以来、路地の角を曲がってうちの前にたどり着くまで、青春時代の韓良露さんの面影を探しながら屋上あたりを見上げて歩く癖がついた。
今朝も雨あがりに上をむいて歩いていると、ほのかなクチナシの薫りが鼻先をかすめた。昨日までは感じなかった匂いだ。
路地の角にはCD盤やら造花やらペットボトル入りの植物やらを大量に店先にブラ下げた異様な外観の雑貨屋(煙草や飲料・日用品を売る昔ながらの)があり付近の風物詩的存在だったが、いつでも撮れるとおもい写真に残さないでいるうちに、先月、あれよという間に店を閉めてどこかへ移ってしまい、苔のように店を覆っていた植物や飾りも、いつのまにやら跡形もなくなってしまった。










2015年4月10日金曜日

清明節考






二十四節気のうちの「清明」

三省堂の「大辞林」によると
二十四節気の一。三月節気。太陽が黄経15度に達した時をいい,現行の太陽暦で45日頃にあたる。万物清く陽気になる時期という意。
清く明らかなこと。清らかで,曇りのないさま。

とある。
日本なら春爛漫、グラスにシャンパンをそそぐが如く桜の花泡だつ花見シーズンだが、台湾では掃墓(サオムゥ)といって先祖の墓に参る大切な節句である。

清明時節雨紛紛(清明の時節 、雨紛紛)

唐の詩人・杜牧の、そんな一行ではじまる「清明」というタイトルの詩がある。台北もこの時期は雨季にあたりシトシトどんより雨が降りつづく。
清明節に一度だけ、夫の一族の掃墓に参加したことがある。まだ言葉もよくわからない頃だった。
場所は淡水のほうで、車を降りると見渡すかぎり小さな家ぐらいの墓が山に沿って連なっていた。家墓の方向に見当をつけ、他家の墓と墓のあいだを抜けて雨ですべる道なき道をゆく。ぬかるみに足をとられて靴を泥だらけにしながら、ようやく家墓に着いた。
幅6、7メートルの家のなりをして、門の上に家名が掲げられている。屋根の向こうは壺を逆さにしたような形状の丘になっており、ちょうど沖縄の亀甲墓によく似ていた。丘のうえに茫々と生えた雑草を鎌で刈りとり、門を清潔に整える。
それから酒や鶏の丸焼き・紅く染めた卵などを墓前に供え、紙銭(祖先や神様のための紙のお金)を燃やし、清められてサッパリした丘で爆竹を鳴らした。早朝から昼ごろまでかかる大行事。そのほかは、異様な疲労感で帰って泥のように眠ったことぐらいしか覚えていない。
(その後いろいろあって、そこに行く機会は無くなったが)

かつて土葬が主だった時代は、10年弱を経て棺のなかで骨化した遺体を掘りだしきれいに洗骨し正式に墓にいれるという手順を踏んでいたらしい。棺の方向や日取りはすべて家運に関わるとされ、それを司ったのが「風水師」だ(名付けや家の間どり・日どりで今も台湾人の生活におおきく関わっている)。
白色テロのなかで命を落としたと言われる小説家・呂赫若(りょ・かくじゃく)は、日本語で書かれた風水(ホンスイ)」という短編小説のなかで墓をめぐる兄弟のいさかいを描いた。
強欲な弟がじぶんに都合のよい風水師を勝手によんで父親の棺のむきを変えたり、数年で母親の棺を掘りおこして棺の蓋をはずすと遺体が腐る途中だったというエゲツナイ話だが、現在でも兄弟で成功の度合いに差ができると、墓の風水問題が喧嘩の種になるのは珍しくない。

エゲツナイ、といえば、清明節に掃墓をするようになった由来がコレマタ物凄い。

春秋戦国の時代、のちに天下の覇者となった晋国の文公は若いじぶん、介之推(かい・しすい)という名の家臣をともなって戦乱をさけて放浪していた。
幾日も食べ物を口にしていない文公は気も狂わんばかり。ようやく農村に辿り着いて百姓に食べものを乞うたが「こんな世の中でじぶんが食べるものさえないのに、おまえにやるものなぞあるものか、どうしても食いたけりゃ泥でも食いな」と返されて絶望し、ついには泣き出してしまう。
見かねた家臣の介之推は再び村にはいり、一椀の肉入りスープを持ってきた。
文公は喜んで一息にスープをひとくちに飲み干す。ようやく生き返った心地であった。
ふと傍らにいる介之推を見ると青い顔をして、足からは血がダラダラと流れている。
文公が再三問い詰めたところ、実はあのスープはじぶんの太ももを切りおとして煮たものだと介之推が告白したので、文公は深く感動したのだった(って、オイ!)
やがて戦乱は収まり、国に戻った文公は晋国の君主となる。功績のあった者達には報奨が与えられたが、何故か介之推だけがそこから漏れてしまう。希望を失った介之推は母親を連れて山中深くに入り、隠遁生活を始める。
一方、介之推がかつて自分の腿肉を切りおとしてまで自分の命を救ったことに思い到った文公は、報奨を与えなかったことを後悔して介之推の暮らす山へとむかう。
しかし山はふかく、分けいっても分けいっても介之推を見つける事ができない。
「そうだ、山火事になれば介之推母子も驚いて出てくるだろう」(オイオイ!)
そう思い立って文公は、山に火を放つ。火は山を三日三晩焼きつくしたが遂に母子は出て来ず、焼け残った大木のそばに抱き合ったまま黒焦げになった姿が見つかったのであった。
文公は自責の念にかられ、介之推を悼んで清明節の前日は火を使うことを禁じた。これを寒食節といい、この日だけは冷たい食事を取ることが習わしとなった。
また清明節には門前に柳の木をかざって介之推の霊をまねき、野山にあそんで介之推の霊を慰め、そして先賢を敬うことから転じて清明節=掃墓の日になったということである。

もう、ムチャクチャでござりますがな!である。
こら、文公!と突っ込みどころ満載なんである。
前に書いた「七爺八爺」といい、中国の民話とかって凄みのある話がホント多い。
それにしても文公の介之推にたいするあまりにもムゴイ仕打ちに、聖徳太子が蘇我蝦夷に恋をするブッ飛び傑作漫画「日出ずる処の天子」(by山岸凉子)的なモノ凄く屈折した暗~い愛情をかんじるのは、ワタシだけだろうか?
そういう目線で是非とも漫画化してほしい気もするが、いかがだろうか?


さて、清明の時節、 雨、紛紛。
昨年の台風がもたらした雨がすくなく、今年の台湾は1947年ぶりの深刻な水不足と報じられている。中部・南部のダムの中には蓄えが20%を切ったところもあり、北部でも新北・桃園市で2日おきの断水が始まった。普段なら憂鬱な雨も、ことしは恵みの雫に思えて雨音も耳にやさしくひびく。

 清明時節雨紛紛」のあと、詩はこう続く。


路上行人魂欲斷   路上の行人 魂を斷たんと欲す

借問酒家何處有   借問す 酒家 何れの處にか有る

牧童遙指杏花村   牧童 遙かに指さす 杏花の村

10年前に台湾で暮らし始めたのも丁度この季節だった。終わりを知らぬかのようにビシャビシャと地面を濡らす雨。そこにホームシックも手伝って、気分はまさに「 魂を斷たんと欲す」(気が滅入ってしまい魂も折れんばかり)。
そんな心持ちを、いまは懐かしく思いだす。








(追記)
清明節に人生が変わることもある。
レトロな看板やパッケージをポストカードに仕立てる活動などを通して台湾人のアイデンティティを求めつづける美術家・秦政徳は、「秦」姓を名のること44年目にして本当の苗字が「成」であることを知ったという。一昨年、中国で初めてあった異母兄が清明節に父親の墓参りに台湾をおとずれ、墓上の父の名をみたことから判明したのだ。
父親は山西省の出身だったが、国共内戦中に地下工作員だった関係で実名を隠したのだろうということも、そのとき兄に聞いて知ったそうだ。 (※参考記事



2015年4月1日水曜日

象の背に乗りて台北を望む。

     



雨が降りはじめてからしばらくして、観衆の大歓声が地鳴りするように雷がひびいた。
待ちかねたスター、の訪れに世界が狂喜しているみたいだ。
台北は亜熱帯だが常夏というのとは違う。冬はそれなりに寒いし、四季らしきものも一応はある。それでも日本のような淡い色合いのグラデーションはなく、FBに上がってくる日本の桜の写真をいちいち地団駄をふむような気持ちで見つめる。
さて、数日のあいだ雨はジットリと降りつづいたものの先週末はさいきん稀にみる青空となり、すわ絶好の登山日和と台北市内にある「象山」へ初めて出かけた。
昨年開通したMRT信義線の終着駅。
家を出て目的駅に着くまでおよそ30分。
駅を出て山の麓の公園に沿って登山口まで歩くこと15分。台北のこういう手軽さ、わりといい。
登り口から急な勾配の階段がつづく。
ひっは・ひっは
階段を踏みしめる腿に日頃の運動不足が刺すように自己主張してくる。

ひっはーひっ・はー・あー、もうだめ。

すぐそばの踊り場で休憩。
「ここは一番目の休憩所だから、ここで休憩するのはおじいちゃんおばあちゃんだよ」
と夫が小憎らしいことを言ってくる。
象山は標高がそう高い山ではない。すれ違うひとも若者グループからファミリー、ここに登るのを日課にしていそうな年配のおばさんなど様々。中にはミニスカートにパンプス姿で「ショッピングのついでに登っちゃった」みたいな女子も居る。
休憩をはさみつつ、30分ほど階段をあがったところで頂上についた。




絶景かな、絶景かな。




眼下には信義区の高層ビル群、その中心にそびえる101ビル。
その向こうに台北アリーナ・台北駅・淡水河が横たわり円山ホテル、背後には観音山がなだらかに霞んでいる。この街が四方を山にかこまれた盆地であることが、こうしてみるとよくわかる。260万人ものひとが暮らす台北。そのわりには、ずいぶん小じんまりしてるな。京都より少し大きいぐらいかな?
この小さな土地のうえに、どれだけの記憶がつもっては忘れられてきたんだろう。
象山はカタチが象に似ていることから名前がついたという。近くにある獅山・豹山・虎山とあわせて四獣山と呼ばれる。
この象の足元・信義区は、80年代の開発計画をもとに世界貿易センターや金融ビル群および101ビルが建設され、いまや屈指の新興高級エリアとなった。101ビルと象山の間には豪華マンションが立ちならび、その地下駐車場からはベントレーやマセラティがぬっと顔をだす。
そんなマンションの間から山を覗くと、物置ぐらいの大きさはある墓がびっしりとフジツボのように斜面を埋めているのが見える。マンション群の艶ピカの大理石とお墓の崩れかけたレンガとのギャップは、どこか非日常的な不安感を煽る。

話は変わるが、わたしの母校は京都の西山にほど近い「沓掛(くつかけ)」という場所にある。
学校といえば怪談とか都市伝説は付きもので、わが母校にもあった。
例えば、そこいら京の都外れはかつて刑場で「沓掛」の沓とは頭部を指し処刑された罪人の首を晒した場所だった、とか建設中に掘ったら山ほど骨が出てきたので慌てて埋めたため校内にアップダウンが多い、とか。
後にふと思い出してインターネットで調べてみたら、沓というのは馬の鞍のことで山越えをするのにそこで一度鞍を下ろして馬を休めた、とある。
外れというよりは山奥と言ったほうがいいようなあの一帯をわざわざ刑場にしたとも思えない。第一そこに晒して誰がみるのだ。当時は信じこんで噂の手がまだ届かぬ友人に吹聴したものだが、今になってみると眉唾である。錦市場で有名な錦通りが昔は「糞通り」だったとか、1200年の歴史を誇る古都においてこのテの話はきりがない。

信義区に話を戻す。
このあたりにも昔からいろんな噂がある。
日本時代に刑場であった・228事件の処刑場にあたり大勢の人が惨殺されたので無縁墓がたくさんある・とある高級マンション施工の際に地下から麻袋に入った死体が幾つも出来てきた・・・などなど。区内の某高級ホテルは世界で10指に入る幽霊スポット、というのはその筋では有名な話らしい。

記録はそこに真実を想像する余地を与えてくれる。調べてわかったのは、日本時代・白色恐怖時代に大きな刑場があったのは、少なくともここではない。
もっと言えば、小さな処刑が行われたと言われる場所は街のあちこちに点在している。また現在、公園になっている場所の多くがかつて日本時代に墓地だったとの説もある。
信義区の出している「信義区歴史沿革」によると、日本時代にそのあたりは陸軍倉庫だったらしい。空港や淡水からまっすぐ基龍路を通って兵器を運びこめる便利な立地だった。
兵隊駐屯地と保養所も併設されていたが、山の脇には家畜の屠殺場があった(じっさい家畜の鎮魂のための墓碑が立っている場所がある)。
戦後に山の斜面は中国から渡ってきた寧波県人会に買い取られ公共墓地になったとある。精神病院や結核療養所も建てられ、1980年台の開発計画以前は地価の上がりようのない場所だったといえる。土砂崩れの危険性だってある。ダークな噂を生むには格好の土地柄だったから、街の背負う暗い記憶が亡霊と化して人の口にのぼったのかもしれない。開発に携わった不動産ディベロッパーはずいぶん頭を悩ませたものだろう。
結果的に計画は見事に成功し、このエリアはセレブの象徴となった。
今や週末になると人々がビールジョッキから泡がこぼれるように集まる。地価も東京の都心部よりずっと高い。

象山の頂上からもういちど市街を眺める。この街のいたる場所に塗り込められた血色の記憶は、新しい価値が断層のように覆いかぶさり表面からみえることはない。
向こうにみえる淡水沿いの萬華地区、中国・清朝の頃に大稻埕と呼ばれた地域から台北は始まった。日本植民地時代から白色恐怖時代、そして現代。
豊かさに対する人々の「もっと、もっと」という欲望をたべて、街は象山の麓まで大きく成長した。
そのとき突如として頭のなかの映写機が映しだしたのは、映画「インファナル・アフェア」の最後、エリック・ツァンがに乗っているシーン。
おびただしい数の屍(しかばね)をものともせず、さらなる富と力をもとめて象の背に乗り悠々とあるく「サム」の姿だ。