2015年2月28日土曜日

恭喜恭喜



今年の旧正月の元旦は2月19日で例年でも遅めの春節だ。連休は終わったけれど元旦から15日目の元宵節(日本でいう小正月)まで春節行事は続く。
日本では新しい年が来ると「あけましておめでとう」と挨拶をする。
中国語圏では「新年恭喜」もしくは「新年快楽」という(快楽と聞いて日本人は少しばかり淫靡な薫りを感じてしまうかもしれないが全くそういうニュアンスはない、単に幸せ/HAPPYという意味)。
なぜ「あけると」「おめでとう」なのか。
台湾をふくむ中華圏ではこんな話がある。

」(ねん、年獣とも)という怪物がいて、いつもは山の中に住んでいる。
ところが冬になると動物たちが冬眠するので食べ物に困る。お腹をすかせた「年」は、大晦日の夜になると里にきては家々を襲い、人を食う。
そんなわけで人々は、としが暮れるたびにいつ「年」に食われるかと恐れおののき、これが最後の食事になるかもしれないと家族皆でごちそうを囲んだ。これが中華圏でいう徐夕(大晦日)にあたり、華人にとって一年で最も重要な日となる。
が、あるとき「」が赤色・大きな音・清潔なものをなにより嫌うことがわかったので、人々は大晦日までに家中を掃除してきれいにし、門のまわりを赤い紙(春聯)で囲み、爆竹を鳴らし、またその夜は下着からすべて真新しいものを身につけて清潔にすることにした。
おかげで「」はその暮れから姿を現さなくなったが、かつて年が明けて人々がお互いの無事をよろこびあった挨拶はそのまま残った。

こうして見ると、日本の年末の大掃除やら新しいものを身につける習慣も相通じるし、「除夜の鐘」なんかはこういう民間信仰が仏教と合わさって出来たのかもとも思える。
更に深読みすれば、一年の中でもっとも日の短い冬至の後の新月の夜である。電灯も暖房もない昔を想えば、月明りさえない闇夜で寒さに震えて山の獣たちへの恐怖も増したに違いない。そこで保存食を用意し日が沈めば大きな音を出しながら皆寄り集まってワイガヤと過ごすようになった・・・案外そういうことで始まってたりして。
また昔の人はすべて「満」で年を数えたので、いつ生まれた人も元旦が誕生日だった。
だれでも、年を取ればいつかは死ぬ。
つまり年(とし)をくったら年(ねん)に食われるのだ。何ともゾッとするような愉快な話で想像をかきたてられる。

もうひとつ、台湾ローカルでこういう説もある。
むかし電気やランプが無かったころ、人間は竹の筒に油をいれたものを「灯猿(テンカウ)」と呼んで使っていた。
冬至の日には、白玉だんご(湯圓)をこしらえて椅子やタンスなぞにくっつけて一年の働きを感謝する習いだったが、ある年にうっかりと灯猿にだけ感謝することを忘れてしまった。
灯猿の火の神はこれを恨んで玉皇大帝(道教のなかの最高位の神様)に人間の悪口をふきこみ、皆殺しにしてほしいと頼んだ。玉皇大帝はたいそうお怒りになり、
「それでは元旦の朝、人間どもの地を沈めてやることにしよう」となった。
これを伝えきいた人々はびっくりして、大晦日の夜は家中のものが集まった。そしてお別れのごちそうを作り、食べながら地が沈むのを待っていた。
ところがそれを台所から見ていたかまどの神様はたいそう人間に同情され、玉皇大帝に「火の神が嘘をついている」と陳情する。玉皇大帝はよくよく話を聞き、人間を許すことにした。
夜が明けた。
地上はなんの変わったこともなく、皆生きている。人々はたいそう喜んで、「おめでとう、おめでとう」と互いに喜びあったという。

ところでこの「灯猿」の話は、日本統治時代に黄氏鳳姿という12歳の台湾人少女によって日本語で書かれた作品「七娘媽生」におさめられているものである。
七娘媽生」の内容は台湾人の一年の行事について細かく記録したもので、昔からの台湾人の民俗風習を日本語で垣間見られるという意味でも貴重な一冊だ。
作品が書かれたのは1940年。終戦から五年ほど前にあたる。植民地の戦時下のまっただ中にいる12歳の少女は、その中でこう書いている。

台湾の人々もこの頃は、新暦のお正月をむかえるようになりましたが、それでも古い人は、いまでも旧のお正月をむかえます。
今は非常時ですから、旧暦のお正月はやめて、新暦のお正月をむかえるようにしなければなりません。同じ一つの国の中で、一方は新暦のお正月をむかえ、一方は旧のお正月をむかえて、別々のことをすると、国がだんだん弱くなります。
私のうちは新暦のお正月を賑やかにむかえました。けれども今年七十四になる大おじいさんが、『旧正月もむかえた方がいい。』とおっしゃったので、ささやかな旧のお正月も、おむかえすることになりました。

これを読む人の感想はさまざまかもしれない。何も思わない人も居るだろう。
が、少なくともワタシはこれを日本人として冷静に読むことは出来ないし、映画「セデック・バレ」は観ずに「海角7号」や「KANO」だけを観て「台湾は日本をきちんと評価してくれるから好き」なんてことを脳天気に言うような気持ちには、とてもなれない。
歴史とはただ「あったこと」である。歴史にたいして出来ることは、そこから謙虚に学ぶことだ。歴史に「もし」はないし「結果的にはよかった」もないとおもう。


で、春節といえば。
いつもスーパーやら色んなとこで掛かっている春節ソングがある。もちろん現代的にアレンジされているのだが、原曲はとてもいい。
1946年 姚敏与姚莉 (合唱) - 恭喜恭喜

ゴ~シゴ~シ ゴ~シニ~♪
って別に洗い物してるわけじゃなくて「恭喜(ゴンシー)=おめでとう」と歌っていんだけども。
「おめでとう」と繰り返しているのに、「リンゴの唄」を思わせる物悲しいメロディ。それもそのはず、これは戦争で傷ついた人々が新しい年に希望を託す唄だからだ。
歌っているのは上海出身の双子の兄妹、姚敏と姚莉。兄の姚敏は、「蘇州夜曲」や「東京ブギウギ」で有名な日本の作曲家・服部良一に師事したのち、妹と共に香港に渡って作曲家となり多くのヒットソングを残した。
作詞作曲は玫瑰玫瑰我愛你」「夜上海」など数々の名曲を世に送り、中国歌謡界の「歌仙」と謳われる陳歌辛
日中戦争下の中国で抗日オペラを作り、太平洋戦争勃発後は日本当局によって拘束され三ヶ月ののちに解放。1945年3月には日本軍のために「神風特攻隊」の譜面も書いた。
同じとしに、日本は敗戦。
1946年、国民党政府より売国容疑をかけられるも七日目に無罪釈放される。
国共内戦で国民党が台湾に渡ったあと、今度は中国共産党政府のもとでたびたび政治的嫌疑をうけ仕事はストップ、1957年には反動分子に仕立てられて安徽の労働農場に送られ、そのまま大躍進政策の下で餓死した(この政策で2000万人以上の餓死者が出たといわれている)。
47歳だった。

1945年8月15日の太平洋戦争終結後はじめての旧正月を迎えるにあたって陳歌辛によって書かれた「恭喜恭喜」は、今も華人世界のなかで最も重要なお正月ソングとして歌い継がれている。


「恭喜恭喜」

每條大街小巷 每個人的嘴裡 
見面第一句話 就是恭喜恭喜
恭喜恭喜恭喜你呀 恭喜恭喜恭喜你

どこの大通りや裏通りでも 行き交う人達みんな
出会ってまず口にするのは そうおめでとうという言葉
おめでとうおめでとうおめでとう あなた
おめでとうおめでとうおめでとう きみに
(意訳by むつみち)


                (12歳の黄氏鳳姿)

2015年2月26日木曜日

台北の逢沢りく ~漫画「逢沢りく(ほしよりこ・作)」




朝のテレビ番組で「子供の注意の惹きつけかた」の特集をやっていて、大阪の保育園が紹介されていた。
例えば伝えたい内容を逆さ言葉にする。子供がウキャウキャと嬌声をあげて走り回るさなか、保育士の男性が声をはりあげる。

「はいきいて~。みんなの大好きな~ る・け・こ!!!

すると、部屋中をぐるぐる駆けまわって「ちびくろさんぼ」の虎バター状態だった子供たちがピタッと立ち止まり、いっせいにズサーっと「コケ」た。
さすが大阪・・・・
あんなに小さいころから吉本新喜劇が血となり肉となって手足や脳をつくってるんだ。
正直に告白する。
こういうときワタシは何ともいえない羨ましさに駆られる。
もちろん、大阪人にも「オモンナイ」人がたくさんいるのは承知している。


ワタシにとって十数年を暮らした京都は青春の地で第二の故郷だ。
ある程度は関西訛りも身について、関西出身でない役者さんがテレビドラマでしゃべる関西弁のおかしさもわかる。でも小さい頃からそこで育ったわけではない「エセ関西人」の自覚ぐらいはある。
で、「きょうの猫村さん」で老若男女をトリコ仕掛けにしたほしよりこさんの新刊「逢沢りく」を読んでいて、忘れていた「関西人コンプレックス」が頭をもたげた。それほど主人公の少女「りく」を取りまく関西の人たちが、メッチャクチャに暖かくて素敵で「オモロイ」からだ。


東京でアパレル関係の会社を経営するかっこいいパパとパーフェクトなママを持つ、14歳の誇りたかき美少女「逢沢りく」。
表面的には理想的な家庭である逢沢家だけれど、パパには愛人が居る。
おしゃれなママはグロテスクなほどに潔癖症で頭でっかち。娘に与えるものぜんぶを自分好みにコントロール出来るとおもっている。そんなママは関西弁や関西も大っ嫌いで、だからりくも自然と関西を憎むようになった。

りくが蛇口をひねるように流す涙は、まわりの人を魅了する。
でもホントは嘘泣きだ。
野良猫も、パパの愛人の嫌がらせにより家で買われることになった「鳥」(インコ)も動物は皆りくに対して敵意をもつ。
ある日インコを絞め殺そうとした問題行動を咎められたりくは、会ったこともない関西の親戚のところにインコと共に預けられてしまう。そして大嫌いな関西で、りくは徹底的に追い詰められてゆく。


「こっち座りよし、やっぱこっち座りぬくいし」と座布団を持ってウロウロするおばさん。
じゃれつくインコに「焼き鳥にすっぞ」と笑いかけるおじさん。関西人の本気と冗談のみわけがつかない。息子の弁当にはお好み焼きがギュウギュウに入っているし、お土産の赤福をこぞって分け合う。夜は京都が舞台のサスペンス・ドラマを見て、ロケ地があっちっこっちする矛盾を指摘しながらワイワイと夕食をかこむ。

今までのようにじぶんっぽく、いられない。嘘泣きもうまく出来なくなった。
絶妙にぬるくていい温度のお風呂からずっと出られないような、もしくは干したての羽毛布団のなかでもがきつづけるような生温かい善意と関西弁の嵐のなかで、りくは思う、


「わたしはぜったい関西になんか馴染まない、ぜったい関西弁なんかに染まらない。」


それに反して、りくといっしょに来たインコは関西の家の人々にどんどん懐く。病気がちの少年・時男に「ちいぼ」という名をもらい、時男の肩や頭にのって「キュロキュロ」と鳴くようになる。
東京では、パパから世話を押しつけられたママが「お世話しなきゃ死んじゃう」から仕方なしに世話し、無関心から名前さえ付けてもらえなかったちいぼ(インコ)
読んでいるうちにハタと気づいた。そうか、ちいぼりくの分身=隠された心なのか。
かつて、じぶんの手で締め殺そうとしたのはりく自身だったのだ。
その後、りくが大阪の家の温もりやプライドを揺さぶる出来事に追い詰められたとき、ちいぼは関西弁でお喋りさえ始める。
まるで、生きることに無感情だったりくの心が時夫の病気をとおして死と悲しみの片鱗に触れ、ちいぼとともに開かれた世界にむかって共鳴をはじめたようだ。
ラストのカタルシスついにりくは大嫌いな関西弁を時夫のために口にし、大声をあげてホンモノの涙を流す。この世にふたたび生まれでた赤ん坊のように泣きさけぶ、「陸」「沢」「逢」う場所で。


これは大雑把にいえば「思春期の魂の成長」をテーマにした作品だ。そういう物語はこの世に沢山あるのだろうけれど、こんなにも「心地良い」作品に出会うのは初めてだった。そしてやっぱり、14歳って大変な時期だ。息子も14歳にいつかなる。こわいような気がする。


さて、もうひとつ思い出したのは台北に来た時期のワタシだ。
台湾人と大阪人はよく似ていると言われる。
あけっぴろげで大袈裟でおせっかいで大きな声でよく喋り、ものすごく温かい。

大体住み始めて一年から一年半あたりに「台湾イヤイヤ期」がくるらしい。
わたしにも来た。まわりでも、国際結婚・駐在に関わず多くの人が経験している。
台北の何もかもが嫌でたまらなかった。食事も、人の大雑把さもすべて気に触った。
じぶんの意思で来たと言われればそれまでなので、人に言うことも気が引けた。しんどかった。この時期に精神的に参ってしまって帰国する人も少くなくないと聞く。それでも友達ができて好きな店も増えるうちにゆるゆると馴染んだ。
慣れた理由のひとつに、言葉の習得の問題は大きいかもしれない。

にしても、りくのその後が気になる。
あのまま大阪に住みつづけて、そのうちもしかして大阪弁で「せやなあ」とか言ってるのだろうか。りくが変わったようにママも変わり、相変わらずブツブツ言いながらも関西に遊びに来てタコ焼き食らってたら面白い。
最初は気持ちわるいなあと思っていたママのこと、下巻でとっても好きになった。女は時として、大人になったって思春期のアレコレを引きずって生きているものだ。


それにしても、ほしよりこさんという作家の才能は恐ろしい。
まずちいぼのお喋りがすごい。独特のタッチで手書きされた文字は紙面からボワボワと立ちあがりそのまま音楽となって流れだすようで、美しい詩のレベルにまで昇華されている。
そして紬のように繊細に織りなされる関西弁の会話。ウィット。観察眼。
誰かが「関西弁の名手といえば、小説家の野坂昭如、黒川博行、今江祥智」と挙げていたけれど、これからは「ほしよりこ」も加えるべきだろう。






        

(追記)
このブログを書いた後、「逢沢りく」が2015年の手塚治虫賞を受賞!
なんとも嬉しい出来事だった。



























2015年2月4日水曜日

風味絶佳~台北一のケーキ







「わたしは着色料まみれ」
と全身で叫んでいるような缶詰のミカン。モモ。チェリー。
それでも小さい頃から母方の里・宮崎に行くと外祖父が連れて行ってくれる薬臭いチェリーが載った「白くま」にはとくべつ心が躍ったし、塩酸で皮だけ溶かすらしい缶詰ミカンと手製の白玉が 入った母のフルーツポンチも楽しみだった。熱がでて食欲のないときの冷やした桃の缶詰なんか、偉大な食べ物そのものだった。


そういう思い出があるから、何となくわかる気がする。


考え抜かれ手をかけられた美術品のようなスイーツが世の中には沢山ある。それなのに、台北人はここのケーキを心から愛してる。

     



ここ「紅葉蛋糕(ホンイエ・ダンガオ)」のケーキは本当にそっけない。どてっと塗られた生クリームの白いホールのうえに、缶詰めのチェリーや黄桃がてらてらと光るからだを流れ作業的に横たえている。ひじょうに質素なビジュアル。
でも食べてみるとわかる。
そのそっけないケーキが、ここまで台北人に愛される理由が。

夫も幼いときから、誕生日といえば毎年ここのケーキだったらしい。
台湾は昔から政情が不安定だったので、アメリカやカナダに移住している人はおおい。そんな台湾人が一時帰国すると、もう過ぎちゃったお誕生日を皆でもう一度祝おうとなる。その場合もうそれは必ず、ここのケーキでなければいけない。
それぐらい、ここのケーキは台北人の「いつものアノ味」なのね。


 台湾の首都・台北。地方との格差がものすごいので地方の人は皮肉をこめて台北を「天龍国」(龍がすむような天の国)とよぶ。その 「天龍国」の中でも、この総統府まで続く目抜き通り仁愛路は「天龍国・オブ・天龍国」。
 そこに「紅葉蛋糕」は40年前からある。
 お向かいには十年ほど前に建てられた、台湾富裕を象徴する億ション「帝寶(ディーバオ)」がそびえている。

    


 「紅葉蛋糕」のケーキの美味しさはクリームにある。新鮮なものをたっぷり使ったエアリーなクリーム。甘さも抑えてあって軽いからまったく胃にもたれないし、嫌味がない。タロイモを練りこんだ薄紫色のクリームのケーキを初めて作ったのもここだと思う。微かに芋の日向くささが薫りサッパリしたモンブランみたい。
店の中もケーキと同じくそっけなくて、いっそ清々しい。ただ「風味絶佳」と書かれた額が掛かっている。奥のキッチンで社長さんをはじめ従業員のおじさん、おばさんがキビキビと立ち働く。
「質実剛健」。
それはワタシが時に台湾の人に感じる一面と見事にかぶる。
質素で意志が強く粘り強い。
台湾で初めて生クリームのケーキを売り出してから40年間、贅沢さや無駄を省いてじぶんちのクオリティをひたむきに守ってきた「紅葉蛋糕」は、小さな工場で機械のパーツ作りから出発し今や携帯電話やコンピューターの液晶・ICチップ製造で財を成した台湾のラオバン(社長さん)たちと一緒に、ここまで歩んできたんだなあとヒシヒシおもう。
母の日には大きな冷蔵庫が注文のケーキの箱でいっぱいになる。


去年、職場の会長の84歳だかのお誕生日パーティーに招待されたお客さんの幾人かが手土産にケーキを持ってきたが、見事にすべて「紅葉蛋糕」のケーキだった(二段のもあったなあ、そういえば)。
8年前にわたしが嫁いで来たときには想像できなかったほど、最近はもっと美味しいケーキもパンも、食べられる。いまや選択肢はいろいろあるにも関わらず、それでも皆こういうときに買うのは「紅葉蛋糕」なのだ。
台湾がまだ日本だったころに生まれ日本としての教育を受けた会長
戦後は台湾華僑として日本に渡り、右肩上がりの経済享受して台湾と日本を結ぶいろんな事業を手がけた。事業が落ち着いてからは、八歳から蒐集を始めた美術品を生業として六本木に居をかまえ、故郷にもどっても美術商として仕事をつづけた。そのに触れ行き交った美術品は10万点以上。社員によく慕われた。インスタントのどん兵衛の「みどりのたぬき」が好きだった。
わたしも、達者な日本語でいろいろなことを教えてもらった。
陶器の持ち方。
掛け軸の扱い方。
値段のつけかた。
月を経るごとに、会長がだんだん生まれた頃に近づいていくのがわかった
たくさんの「紅葉蛋糕」のケーキを前にして嬉しそうに笑っていた会長を思い出す。
その二ヵ月後に会長は亡くなった。最後まで、台湾語と日本語でお話された。ふたつの母国語だった。


会長、あんなに沢山の「紅葉蛋糕」が並んだの初めてみましたヨ、ワタシ。
お疲れさまでした。






紅葉蛋糕(本店)
106台北市大安區仁愛路3段26號之5
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