2015年12月27日日曜日

【お知らせ】台湾Arts&Craft通信



台湾の美術工芸を中心としたアート情報や展覧会レビュー、インタビュー、台湾デザイン情報をお届けする「台湾Arts&Craft通信」というフィスブック・ページを開設しています。

興味の有る方は、ぜひフォローしてくださいね☆
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2015年12月26日土曜日

安田謙一「神戸、書いてどうなるのか」~除夜の鐘の聞こえない街で。




微風廣場の紀伊國屋書店で注文していた本を受け取ってバス待ちのあいだ2篇目の丸玉食堂まで読んだところでそれ以上読み進めるのが勿体なくて慌ててカバンに仕舞った。
ロック漫筆家・安田謙一さんのご著書5冊目にして初の書き下ろしエッセイ「神戸、書いてどうなるのか」。
神戸について煩悩の数と同じ108篇が収められており、目次を眺めていたら、十数年前に安田夫妻によく神戸のあちこちへ連れて行って貰った頃の記憶がブワッと蘇って来た。
年があけたらワタシもついに「不惑」を迎える。思えばちょうどあの頃そのぐらいの歳だった安田さんは、もっと成熟してもっと色々知ってたり考えている大人だった。
未だ迷い続けてる人(=ワタシ)と、産まれた時から迷ってない人(=安田さん本人談)
の差なんだろうか?

年末感の微塵もない除夜の鐘の聞こえないこの街で、空けてしまったらもう二度と手に入らない貴重なお酒を呑むみたいに、ちびちびとこの108篇を繰りながら行く年を送りたい、そんな本。




2015年12月10日木曜日

【中国映画】追婚日記~ オシャレでゴージャスな夢をまとって来るべきものとは。

               
             

この映画を観たすぐ直後に、興味ぶかい記事を読んだ。
英・ファイナンシャルタイムスの記者が台北で書いたのを、日本経済新聞が日本語訳して掲載したものだ。

1980年代に大きく発展し、台湾当局が技術流出を防ぐために中国大陸からの投資を禁止してきた台湾の半導体業界内部から、シトロニクスやメディアテクなどの大手企業を中心として、中国大陸からの投資や合併を積極的に受け入れる動きが広がっている、との記事だった。
老闆(ラオバン/経営者の意)達はいう。

「お金はお金、そうでしょう?」
「中国と組めば、西側の同業者とも競争できて市場が広がる」
「何があろうと最後には中国人は自前で出来る、その前にこちらから合流したほうがいい」

現在、台湾の貿易の30%は中国大陸に依存しており、仕事や観光で人の行き来も年々活発となっている。しかも、公用語はおなじ「中国語(北京官話)」だ。

「いつか統一する日が来る、その時に台湾がいかに良い条件・立場に立てるか、そこが問題」というようなことを、アノ李登輝さんが言っていたのを昔どこかで読んだことがある。そのときに
「李登輝さんでさえそう言うのなら、いつか避けては通れない道なのだ」というのは、ここ台湾で家庭を持ったひとりとして覚悟した。ただ、

いつ?
どうやって?

というのはよくわからなかった。
まわりの台湾人に聞いたところ、「まあ30~35年はかかるだろう」というのが平均的な意見だった。
でも今回の中国映画「追婚日記」(あえて中国映画という)を観ていて、おもった。
もっともっと早いこともあり得るのかもなあ、って。

今までも、中国資本がはいって中国を舞台にした映画はたくさん作られていると思う。
ここ最近でも舒淇(スー・チー)をヒロインにした「剩者為王」(未見)だって、上海を舞台にしてるし。それ以外にも、台湾スタッフや俳優が中国資本の映画で活躍して来たのは、これまでも沢山あっただろう(それ自体はモチロン喜ばしいことだと思う)。
しかし昨年、台湾映画の上映に関する新しい法律が中国で出来た。中国のマーケットを無視出来ない台湾映画としては、それを呑むしかお金を集める方法がないので、いま多くのエンターテイメント的な台湾映画はその条件下で作られている。
その法律とは、メインキャストの幾人か(二人以上?)を中国人俳優にしなければ中国で上映できない、更に中国企業も投資できないという厳しいものなんだそうだ。

それでも重要なのは、一応はどれも台湾・中国の合作だったということである。

だから(全部チェックしてないので絶対とは言えないまでも)この「追婚日記」は初めての、ほぼオールメイン台湾キャスト&スタッフなのに、オール中国資本の映画といえるのじゃないだろうか(前例があったらすみません、指摘してください)。

さて、映画の内容。

舞台は上海。
キャリア・ウーマンで33歳のララ(林依晨/リン・イーチェン)とカメラマンの王偉(周渝民/ヴィック・チョウ)は同棲して5年になるカップルだが、なかなか結婚まで話が進まない。
そんなとき、煮え切らない相方にイライラが募るララに最高のキャリア・アップ&結婚のチャンスが降ってくる。
出向先のPR会社で、取引先のイケメン若社長(陳柏霖/チェン・ボーリン)から壁ドン&片膝ついてのプロポーズを受けて、王偉との三角関係に揺れるララ。
サクセスとセレブな未来。恋人とは。幸せとは何なのか。

といった、ストーリー的には簡単な話なのだが、この映画が下敷きにしているのは「プラダを着た悪魔」。
とにかくスタイリッシュでオシャレなセレブなリン・イーチェンや周りの女の子達の姿が映し出される。
加えてリン・イーチェンの元上司は白人、そして新上司はニューヨーク帰りだからグローバル!しかも、三角関係になるチェン・ボーリンや仔仔が、とにかく理解力があって優しいくてご飯だって作ってくれるし「現実にこんなオトコおるかい!」と突っ込みたくなるようなファンタジックな男性像なのである。チェン・ボーリンに比べたら役柄的にはスペックが低い設定の仔仔だって、ニューヨークでカメラを学んだって設定なんだから云わば富二代(お坊ちゃん)である。

台北でバスに乗ってると見かける、ジャージ着て長い髪ぱらりと垂らした勉強ばっかりしてる女の子たち、これ観たら思うだろうな。20代やアラサーの女子たちだって思うだろうな。ファッション雑誌「ELLE TAIWAN」のFBページだって、毎日この「追婚日記」が女の子たちにとって、どんなにオシャレで素敵な映画かって宣伝してる。バスの上にも広告が貼られて毎日走ってる。

「台湾の身近なタレントたちが中国で活躍してる」
「上海でキャリア積んで働きたい」
「こんなオシャレな生活して恋愛したい」
「中国人の男の子と恋愛したい」

そう云うふうに思ったら、映画の中にいっぱいキーワードは散りばめられている。
例えば洋服のオンラインショップが映画内で紹介されている。
オシャレな服はここで買おう。台湾からでも注文出来るし(実際、台湾で売られているのはダサい服が多い)、タオバオをはじめ中国で楽しく消費をする門戸は既に大いに開かれている。
そして実際に、台湾の女の子のなかで中国人男性との恋愛は流行っている。
理由は
「台湾人男性みたいに粘着質でなく」
「一人っ子政策でオトコが余っているので、女の子にすごくマメで家事全般得意」
「お金を持っている」ということみたいだ。
まさにこの映画の中で描かれている理想的な中国人男性そのものである。

これらのものを手に入れたいと大陸に渡った女の子達は、果たして思うだろうか?
「台湾は台湾、中国は中国。」って。


昨年、太陽花学生運動があれだけ盛り上がったのには理由がある。
もう、両岸統一は見えるところまで来ているから、あれだけの学生たちが危機感を感じて立ち上がったのだ。でも、危機感を感じたのは目に見える違和感に刺激されて恐怖が沸き起こったから。
これからも、そんな刺激的で表面的な事件が起こって皆の注目を引きつけることは何度もあるだろう。でもそれ以外は、見えない方法で少しずつ、でも確実に、台湾の人々の常識や心のなかに浸透していくのだと思う、例えばこの映画みたいな方法で。
そして今の20代が40代の国家を支える働き盛りになっている頃にはどうだろう?
と、エンドロールに次々と上ってくる無数の中国のネット企業やメディア企業を見ながら、さむ~い気分で映画館をでた。

最後にひとこと、もしこの映画を観るならば、それ以外に最低3本は「台湾映画」を観て欲しい、もし出来るだけ長く「台湾は台湾」であって欲しいと思うならば。
一般消費者にとって、消費とは日々の投票行為である。

これに尽きる、気しかしない。


      








2015年12月4日金曜日

【作家紹介/展覧会レビュー】吳竟銍(Wu Ching-Chih)個展

                             
微觀下的森林首飾裝置個展@CC Gallery 藝文空間

イタリア・アメリカ・日本など国際的なクラフト・コンペで活躍し、コンテンポラリージュエリーの世界でも注目されている金工作家・吳竟銍の個展が「CC Gallery」(http://ccgallerytw.com/
新北市樹林區學勤路398號)で行われました。
日本・伊丹市国際クラフト展で「ジュエリー部門」「酒器部門」と例年入賞し、とくに「雨滴」をイメージした盃では、圧倒的な自由さと精巧さをみせて審査員を驚かせた台湾の作家の、自身の手がけるギャラリーでの初の個展となりました。
筆者が日本では見たことがなく、台湾ではあるモノのひとつに「枯れ芽吹く木」というものがあります。日本ではただ「枯れた木」なのですが、南国・台湾では違います。そこにエネルギーがみなぎって、また新しい葉や茎が太陽に向ってのびている「枯れた樹」です。
風の凪いだ日には可憐な美しさをみせる自然。それが、ひとたび荒ぶれば人間を痛めつけることを、わたし達は知っています。
そして、そんなエネルギーを秘めているからこそうつくしいということも。
吳竟銍はここ台湾で、それを捉えながら作品を作っている作家といえるでしょう。
幼いころから花の形や色の美しさに引き込まれて、そこから広げていったモチーフは「自然のもつ形態」。
水の波紋や植物の細胞、昆虫の羽といった有機的なラインが、銀や銅といった金属で形作られたのちに、中国の伝統的な技法である琺榔(エナメル/七宝)で彩られています。それは、自然の草木から取られた色素で染められた布のような色をしています。
皿まわしが幾重にも広がったような作品は、近づけば苔の森のような小宇宙、そして遠ざかれば大森林、と見え方の変わってくる作品。これを観て思い出したのは、北宋時代の水墨画でした。
近く、遠く、自分の望遠レンズの調節しだいで大きな世界を自在に往き来できるダイナミズム。
近視眼的になりがちな忙しい暮らしのなかで、羽虫にも宇宙人にもなれるじぶんの「想像」という望遠レンズのありかを教えてくれる、吳竟銍の作品はそんな存在かもしれません。
(2015 .9.17)

2015年12月2日水曜日

【お知らせ】「な~るほどザ・台湾」の12月号

「な~るほどザ・台湾」の12月号、昨日発売です。
体感台湾のコーナーでポーセラーツの中国茶器づくりを、またイベントレポートでアートフェア台北について書かせてもらってます。
台北にお住まいの方は、大きめのホテル(フロントで言えば出してくれるそう)や日系レストランなどで是非ご覧になってみてください~☆


2015年11月6日金曜日

映画「灣生回家」と、東山彰良「流」 ~永遠の異邦人





わすれがたきは、ふるさとだ。

2015年は日本と台湾にとって、直木賞を受賞した「流」とドキュメンタリー映画「湾生回家(ワンセイ・フェイジャ)」という、日本語でこれまであまり語られてこなかった台湾の側面が奇しくもそれぞれ注目を浴びたという意味で、重要な年となったのは間違いない。

興味ぶかいのは、両作品がまったくちがう立場から「強烈な郷愁」を語っているところだ。

というのも、「流」が太平洋戦争後に蒋介石の中華民国政府と共に台湾へと渡ってきた人々(台湾では俗に外省人とか外省系と呼ばれるけれど、差別的な響きがあるというので最近は公的な場で使用されない)の来しかたや生活を描いたことに対し、「湾生回家」は日本統治時代に台湾で生まれた日本人二世の台湾への想いを示している。
台湾社会における両者はとても対照的だけれど、それこそが台湾の複雑さと多様性をものがたっているようにおもう。





「道の先に圓山飯店が立ち上がり、わたしは高速道路を降りる。雨のせいで、道路だけでなく、どこもかしこも薄汚れて見えた。張り出し屋根の下は不法駐車が占拠しているので、人々は不便を強いられていた。建物にこびりついたスモッグが雨に溶けて流れ出し、壁に黒い筋をつけている。雨水に流されたゴミが側溝の格子蓋に山と留まり、そのそばでは少女が傘もささずにバスを待っていた。神様はきれい好きにちがいないけれど、汚れた街を水拭きした雑巾を、わたしたちの頭の上で絞っているのだった。/流』

そうそう、ほんとうにそうなのだ。台北の雨の日って。
こんなに正しくあの感じを日本語でうまいこと捉えたものを読んだのは初めてだ。

といっても、「流」の舞台となっているのは1976年前後の台北で、本筋は国民党軍として台湾に来た主人公の祖父が被害者となった殺人事件をめぐるミステリーだ。
が、ミステリーとしての読み応えもさることながら、わたしのまったく知り得ないかつての台北の姿が、手を伸ばせば触れるんじゃないかと思うぐらいの鮮やかさとスピード感を持って描きだされるのは見事だった。
主人公が幼なじみと二人で、広州街の喧騒を、陽明山のカーブがつづく闇を、今はなき西門の中華商場を駆け抜けるたびに、頬にその風をまざまざと感じられたのは、とっても幸福な読書体験だったと云うほかはない。
アニメ「NARUTO」の脚本などを務めてきたという異色なバックグラウンドも、その映像的な筆致に関わるところが大きいんだろう。

ところで主人公は、東山氏のお父上がモデルらしいのだが、時代設定的にはお父上と東山氏とのちょうど中間ぐらいになっているということだった。
それにしても、福岡に一家で移住された後も一年に一度は長期で台北に戻ってきていたとはいえ、生まれていない時代の台北をあんなにも詳しく書けるというのは凄いことだ。詳しく書いてあると分かるのは、ある程度わたしにも台北や台湾人についての知識があるからだが、そうでない人が読んだらどんな感じかということには、これまた違う意味で興味をもった。
とはいっても直木賞の選考委員の中で全員一致で決まったというのだから、まったく台北を知らなくても面白いのだろうけれど。

嬉しかったのは、東山氏が台湾の映画監督・陳玉勳
(「ラブ・ゴーゴー」「熱帯魚」「総舗師」「青田一号(脚本)」)
が好きと知った時だ。
これ、すんごくわかる。
「流」も冒頭からやたらめったら排泄物とかの話が出てきて、そこはかとなく漂う「小一男子」感に共通するものがあるんだよね。
「流」の映画化はぜひとも日台合作で、陳玉勳・監督にくわえ、東山氏と陳玉勳の共同脚本でお願いしたい。



これに対して、「湾生回家」は日本統治時代の台湾でうまれた日本人に取材したドキュメンタリー映画だ。

うさぎ追いし かのやま
こぶな釣りし かのかわ
夢はいまも めぐりて
わすれがたき ふるさと

子供時代から中高生時代までを台湾で無我夢中にすごした思い出が、この「ふるさと」という曲をBGMに次々とかたられる。



戦後、「湾生」という言葉はひとつの差別用語のように用いられたと聞いたことがある。

たしかに日本に無一文で戻った湾生の暮らしは大変だったと映画中でも軽く触れられてはいる。
欲を言えば、その時期についての記憶、また逆に「湾生」にコンプレックスを抱いてきた人の話などの陰影が加わればさらに良かったのに、と惜しく感じるところも実はある。
それでも、いままで多くの人が知らなかった若しくは忘れていた「湾生」という日本人にスポットがあたり、多くの台湾人や日本人に知られるようになったというだけで、ただただ意義深いという外ない。

見終わってからおもった。
「日本人から台湾人へ送られた初めてのラブレターだあ。」
1945年に日本人が去り、それまで自分を日本人とみなしてきて日本軍人として戦争だって行った台湾の人々は、突然日本人で無くなった。
そして1972年に日本は、台湾との国交を一方的に断絶する。
その後、日本で近代史について語られる機会は減り、台湾と日本のかつての結びつきさえ忘れ去られ、いまだに「台湾ってタイ?」と見当違いなコメントをする日本人も、実は少なからずいる。
かくいうわたしだって、台湾と日本がここまで深い関係だったのを知ったのは、台湾人の夫と結婚してこちらに来てからのことだった。
「湾生回家」の台湾ヤフーのコメント欄には、多くの台湾人から「じぶんも台湾に生まれて良かったと心から思わせてくれた作品」と絶賛する声がならんでいる。


朝イチの回だというのに、年配の観客で座席はほぼ一杯で、映画のなかで唄がながれる度に、どこからともなく合わせて歌声があちこちで起こった。
見ず知らずの台湾人のおじいちゃんおばあちゃん達だけれど、映画館を包み込んだ彼らのエモーションにわたしは少しだけ参加することが出来たのだ。
これは家でDVDを観るばかりでは決して味わえない感覚だ。

知人に、日本語世代の台湾人のおじいちゃんがいる。
彼の母国語は日本語だ。
台湾人社会でずっと生きては来たものの、家で観るのはNHK、読む雑誌は中央公論や文藝春秋。
そんな方々とも、この10年から20年のうちに、ほぼ会えなくなってしまうだろう。
夫の親戚の大伯父は「わたしは忘れられた日本人なんですよ」と語って初対面のわたしをびっくりさせたが、その大伯父も先日亡くなった。

登場人物の「湾生」の女性は、「じぶんは永遠の異邦人である」と語る。

それは「湾生」の日本人ににだけ当てはまる言葉ではなく、日本統治時代に多感な時期を過ごした多くの台湾人も「永遠の異邦人」といえるのかもしれない。

そして、故郷・山東に戻れないまま台湾で人生を終えた「流」の主人公の祖父やその友人たちもまた「永遠の異邦人」であり(そのことが実は、このミステリーの鍵となっている)、
その作者である東山氏も、「湾生回家」の作者である田中實加氏も、「永遠の異邦人」なのだろう。


わたしにも、自分を「永遠の異邦人」だと自覺する日がいつか来るだろうか。








2015年10月29日木曜日

【台湾映画】百日告別(百日草)~ 君が去ったあとの、それぞれの過程。





結婚して台湾にきたときをおもいだした。

9月に式を挙げてから一か月後に義父は入院し、看病の甲斐もなく11月にこの世を去った。
あれから、間もなく10年目を迎えようとしている。
義父はとっても素敵な人だったから、家族をはじめ、周囲のいろんな人がショックを受けてしばらく立ち直れずにいた。夫を熱烈に愛していた義母には、更に時間がかかったのも無理はない。
夜眠れなくなり、眠るのに薬が必要になり、物忘れが一時期ひどくなった。私たち家族が行動する時にはいつも、義母と義父・夫とワタシ・義妹とその夫の三組で行動したから、義父が居なくなったとたんに義母だけが余ってしまった。姑の隣にぽっかりと空いた空間は痛ましかった。
その空間が誰にとっても当たり前のように馴染んできたのは、幾人か増えたあたらしい家族たちが、にぎやかに言葉を発するようになった最近のことだ。


台湾のお葬式は複雑だ。現在の日本ならば、お葬式と共に初七日まで済ませてしまったりするけれど、台湾ではまだまだその「過程」が大事にされる。
ひたすらお経を唱える。折り紙を折っては、毎日それを焼く。
それを繰り返す日々は、看病の疲れも取れていない体に実は非常にこたえる。
でも、それらを繰り返して居るうちにわかったこともある。
メロディの付いた台湾の御経を声に出して読んでいるうちに、かなしみがゆるゆるとほどけてくる。
御経を唱えている一日数時間の間だけは、キリキリとした気持ちから解放される。
そのとき思いついたのは、二千年以上も続いてきた儀式にはやっぱり意味があるんだなあということだ。
節回しのついた御経を声に出して繰り返しているうち、ひとつのトランス状態に入る。あるいは一つの手作業(昔のお金や蓮の花を模した折り紙をひたすら折っては焼く)に集中しながら亡くなったひとの思い出を誰かとポツポツとシェアしているうちに、こころに少しやわらかさが加わる。
それは時として襲ってくるかなしみから心を守る防波堤となり、ささやかなクッションともなり得る。
まあ、それも実際に数か月しか義父と付き合いの無かったワタシの頭で考えたことだ。
実際に義母には、更に多くの年月が必要となったのだから。



さて、この映画はだいじな人を予期せず亡くしてしまった二人の男女が、当日から100日目の「告別」までの間に、少しずつ悲しみを手放していく「過程」を描いた映画だ。
男(石頭/五月天)は妊娠した妻を亡くし、女(カリーナ・ラム)は結婚を間近に控えた婚約者を失った。周囲の慰めも、気づかいもふたりにとっては何の役にも立たない。

ふたりは失くしたのがお互いの加害者/被害者であることを知らないまま、節目ごとに山中の寺で行われる読経会でたびたび顔を合わせる。
そのあいだ、ふたりはそれぞれの方法で自分の悲しみとむきあう。
カリーナは、婚約者と約束していたハネムーンの行程をひとりで達成するべく沖縄に飛んだ。
石頭は、ピアノの教師であった妻が穴を開けたレッスンの授業料を払い戻すべく、生徒の家を探して回る。
そこで描かれるのは、みなそれぞれ、その人だけの悲しみを手放す「儀式」を持っていて、なにが一番その人を癒やすのか、結局は本人にさえわからないということだ。

そういう意味で心を打たれたのは、カリーナが沖縄で長い階段の道を登るときに一人のおばあさんと出会うシーンだ。
階段を登るおばあさんが大変そうなので、最初は何か手助けできることは無いかと考えるカリーナだが、沖縄の方言でゆっくりと話しかけてくるおばあさんの様子を見ているうちに、「ただ耳を傾けること」も、時には人にとって大きな助けとなる事を知る(監督は特に意識していなかったと思うが、「沖縄」という場所と「耳を傾ける」重要性に、日本人としては注目せずに居られない)
意味を体得できなくとも、誰かの想いに耳を傾けながら登る長い階段。
そして、山中の寺からの帰り道、肩を並べて座った石頭とカリーナを載せたバスが、ひたすら延々と坂道を下ってゆくラストシーン。

こうして人は、坂道の上り降りを繰り返しながら悲しみを手放していく。
この映画を撮るきっかけとなった、林書宇監督が奥さんを亡くされた経験が見事に投影されながらも、普遍的な「離別の痛み」に寄り添った作品となっている。

ところで、この作品に関してもうひとつ大きく、考えさせられたことがある。
初めて上映された台北映画祭で、あまりにも評判が悪かった為に、台湾での公開ではカットされてしまったシーンがあるという。
理由は、台湾人の性的なモラルに合わないという理由からだ。
気になって観た人に聞いたところ、かなり重要なシーンだった。
というのも、そこを観たときに「何か足りないなあ」と思ったからだ。
ワタシがもし脚本家なら、ぜったいにそこからそう行くのに、なんでだ?
という物足りさなさ。
元々は存在したシーンだったから、カットされたことで余計に不自然に感じてしまったのかも知れないし、実際に観た台湾の観客にコンセンサスが取れなかったということなら、描き方自体に問題があったのか。
観てないワタシにはわかりようがない。

もしあったら、どんな感じだったんだろう。
考えても考えても、カリーナの悲しみと切なさが、より心に迫ったに違いないと思えてならない。
台湾人の観客に受け入れられないという理由も、わかるようでわからない。
なにしろ作った監督もスタッフも俳優も殆ど台湾人なわけだし、脚本を観てお金や場所を提供したスポンサーや文化局だって台湾人なわけで。

現在、開催中の東京国際映画祭では、ノーカットで上映されているという。

頼むから、
頼むからいまいちど台湾でノーカットバージョンの上映をお願いしたい。


       



















2015年10月16日金曜日

【台湾映画】太陽的孩子~ 台東の田舎で起こっていた、もうひとつの「ひまわり革命」




花蓮・アミ族のとある部落で進められるリゾート開発問題をめぐる実際にあった話を元に映画化した、人々と土地への想いの物語。

冒頭、マスメディアで働いている母親が「ひまわり革命」の取材をしてきたという場面で、この物語の時期がちょうど去年のあの運動が盛り上がっていた時期であることが示される。

ひまわり革命で台湾人の警察官が運動と国家の間で揺れたように、アミ族出身の警察官の青年も公権力と自分のルーツとの狭間でゆれ、またインターネットの情報が既存のメディアを軽々と大きく超えていったことなど、昨年の「ひまわり革命」を彷彿とさせる描写が散りばめられており、「ひまわり革命」で若者たちが何のために戦っていたのかを改めて考えるきっかけを与えてくれる。

加えて「伝えていく」ことの難しさ、現実的な経済問題、そして特に原発事故の問題を抱えている日本人として、先祖代々大切にしてきた土地や文化が奪われることについて深く考えさせられる映画でもある。


アミ族のアーティスト、スミンによる楽曲もほんとうに素晴らしい。機会があればぜひ劇場で観ていただきたい映画だ。



          

2015年10月11日日曜日

【邦画】日本映画「あん」~「戀戀銅鑼燒」



河瀨直美監督と永瀬正敏さんが映画「あん」のプロモーションの為に来台され、メディア取材に紛れ込んだ。

さて。
河瀨監督の現場には「スタート/カット」が無いらしい。
俳優さんがその役になりきって人生を送っている、その一部を切り取って映画にするのがスタイルだという。

だから一年ほどのあいだ日本の四季を追いながら「あん」が撮られていた頃、永瀬さんは「千太郎」として生きていたし樹木希林さんも「徳江」として生きていて、実際そのどら焼き屋さんも存在して街の人が買いにくることもあったというのは、映画を観ていると自然に頷ける。

涙があふれたのは、樹木希林さん演じる徳江さんが、ちょっと素っ頓狂で変な行動を取るおばさんだなあって最初は思うのだけど、見ているうちにそれが移ろう四季への慈しみなんだとわかったときだった。
その部分の演出について質問したとき、監督から返ってきた回答が面白い。

監督のママ友で、学校の先生をしているお友達が「あん」を観た後に泣きながら語ったらしい。
一見変わったオバサンが「食べてください」とアンコを持って来た時に、「危ないから食べずに捨てろ」というのが自分が与えるべき教育なのが現状だけれど、それで棄ててしまえば、この映画のように誰かが救われる物語は存在しなくなってしまう、という話だ。

だけれど今の世のなか、危なっかしいことが多いことも事実だし。
毒盛られるとか。
実際ワタシだって絶対、子供にそういうふうに教えているし。でも同時に、「人の気持ちになって考えろ」とも教えている。
すごい矛盾だよね。
河瀨監督の映画に、もし共感できないとしても目をそむけることが出来ないのはそこにあるんだろう。
「棄てる」ということは実は、今の日本がいちばん直面している問題だ。
その問題とは
膨れ上がる高齢層
貧困層の若者
放射能に汚染された地域の方々
の話である。
かつて「棄てられた」ハンセン氏病は克服された病気にも関わらず、元患者の方たちは今もこれだけの偏見と差別のなかにある。
これからの「棄てられる」ものにわたし達はどういう風に関わっていくのか、それは「あん」に込められたもうひとつの物語でもあると思う。
監督が分厚い靴下にサボという出で立ちだったんで、「あっ!冷え取りの人だ」と思って取材後に聞いたら「四枚重ねです」とのことだった(笑)
奈良出身の監督と関西弁で「冷えとり」について喋ってたら、何だかすごく昔から知ってる人な気がした。
そうだ、18歳のときに「につつまれて」「かたつもり」を奈良かどこかの映画館へ観に行って感銘を受けて、思えばそれが河瀨監督との出会いで。
アレから20餘年。
監督とツーショット撮って貰ったのだけれど、緊張で顔が異様に引きつっていました。

2015年9月24日木曜日

【邦画】陽光只在這裡燦爛~そこのみにて光輝く


【そこのみにて光輝く / 陽光只在這裡燦爛】
監督:呉美保 
出演:綾野剛、池脇千鶴、菅田將暉、高橋和也、火野正平


主演女優が池脇千鶴さんなので、やっぱり観に行った。
題名の「そこのみにて」の「そこ」は、漢字の「底」という意味もあるらしい。

鉱山採掘の仕事中の事故がトラウマになり、主人公(綾野剛)がまいにち酒びたりでブラブラしているところ、海辺のバラックに住んでいる一家と交流するようになり、そこの姉(池脇千鶴)と恋に落ちる。
ひとりで一家を支える池脇千鶴の悲惨な境遇が明らかになるにつれ、綾野剛はこの一家を救うためにもう一度仕事を始める決心をするが、未来に希望が見えたかとおもったとき、事件は起こる。

これを観ながら思いださずにいられなかったのが、先日ブログでも紹介した台湾映画「酔・生夢死」。
http://taipeimonogatari.blogspot.tw/2015/08/blog-post_28.html

「そこのみにて光輝く」もコレに負けるとも劣らない激鬱設定の作品で、主人公がトラウマ抱えて酒びたりで生きているとこから話の流れまで、まるで双子みたいによく似ている。
(クライマックスで使用される凶器まで被ってるのも見もの)

同じ時期に、台湾と日本でこういう似た映画が作られたことに加え、テーマは真逆なところも興味深い。

「酔・生夢死」が「ひとを救うのは死である」というのに対し、「そこのみにて」は「人を救えるのは愛しかない」と言い切る。


印象深かったのは、惹かれあう綾野剛と池脇千鶴が海の中で抱擁する場面。函館の暗くて沈んだ色の波をかき分けかき分け、ようやくお互いまで辿りついて溺れそうになりながら抱きしめあうシーンがひどく美しかった。
あと、濡れ場。
池脇千鶴の脱ぎっぷりも相変わらず素晴らしいけれど、すごく自然な感じなのが最近観た映画のなかではピカ一。女性の監督ってこともあるのだろうか。

脇を固める菅田將暉、高橋和也、火野正平もいい。

とくに高橋和也は益々暑苦しい円熟味が増して、見ごたえあり。

後ろに座っていた日本人らしき年輩の女性三人組が、どういう理由でこの映画を観に来たのか判りかねるけれど(函館とかこの映画関係者が知り合いとかかも)、終わったあとに「・・・すごい映画だったわねえ」「こんな映画だったとわねえ・・」と、呆然としたような、しぼりだすような声で口々に言った。

2015年9月14日月曜日

台北のY字路⑲~番外編・三峡清水街



きょうのY字路。
カラフルな落書き(ストリートアートと呼ぶべき?)が施されているが一階部分が何を描きたかったのか全く意図不明のY字路の前では、黒い犬が猛烈にゴロンゴロンしていた。背中が痒くて仕方ないんだろう、気の毒に。
日本統治時代以前は「三角湧」と呼ばれ、三つの川に囲まれた水の豊かな土地・三峡。
かつては台湾藍染めの中心地として栄えたほか、地元出身の芸術家・李梅樹が監督した祖師廟(これ、ホントに凄いです)に代表される彫刻や茶葉産業など、美術工藝が息づいている。



「活力の屋」が閉まっていて何屋なのかわからないけれど、いかにも活力が出なさそうな佇まい。一枚目と共に、川沿いの石畳がいい雰囲気の清水街にあった路地の頭と尻尾だ。

台湾の廟口(お寺の前)の前には、大抵美味しいものが有る。ここでも臭豆腐の看板に引き寄せられてフラフラと中へ入った。ワタシ的にはちょっと臭さが足りなかったけれど、おっちゃん特製の生唐辛子も白菜の漬物も香りが良かった。


おっちゃんとおばちゃんが凄く仲良さげで、看板のとこに小さく書かれた日本語の(揚げ豆腐)について二人で「これ間違ってない?」「炸は揚げるで合ってんだよ」「変よー臭はどこ行ったの」「日本人は臭がって食べないから何でもいいんだよ」みたいにぺちゃくちゃとやってる。
いや今も店内に居るんですけどね、ひとり。
臭いから食べたがる日本人が。



2015年9月11日金曜日

台北のY字路⑱(萬大路・2) ~頂樓加蓋


きょうのY字路(萬大路)。

台湾のアパートの無法な増築っぷりが存分に味わえるY字路。
五階部分は「頂樓加蓋」と言って、四階の人が勝手に建て増ししたもの。
四階の人が五階の建て増し(勝手に)したぶんも坪数に含めて売り出したりと無茶苦茶な上に、火事などの問題もあって、現在は新規の「頂樓加蓋」は、ほぼ法律的に認められていない
(かなり厳しい条件をクリア出来ればオッケー)。

夏は馬鹿みたいに暑く、台風が来たらトタン屋根がバンバン鳴り止まず、浸水し、冬は隙間風に悩まされる。
出入りするのに、人んち(四階の住人)の家を通って上がる。


「頂樓加蓋」は家賃が安いので、 台北に家のない、いわゆる「異郷人」だったら一度は住んだことのある場所だという。
我がアパートの屋上にもあるけれど、うちの衛星放送アンテナの隣のドアから、台湾大学に通うアメリカ、韓国、ヨーロッパなど様々な国籍の留学生が顔を覗かせる。

2015年9月9日水曜日

台北のY字路⑰(光華商場前)

きょうのY字路(光華商場前)。
最近、日課の如く家族で通っている「茉莉二手店」っていう近所の古本屋さんがあるんだけど(少ないけど日本語の本もある)、そこの社長さんである台湾の編集者・傅月庵さんも高校時代に日々、光華商場の古本屋に通いつめて青春時代を過ごしたという。

建て替えを経て、今ではアニメオタク&パソコンオタクの聖地的なイメージがあるけど、秋葉原が昔そうだったように、かつての光華商場はオーディオ屋や古本屋のひしめく場所で、今の台湾文化を牽引する人を育てた。


1945年の地図を観ると、市民大道にまだ鉄道が走っていて、このY字路が八徳路と鉄道沿いに挟まれた三角地帯だったことがわかる。
ところで、中心にある雨天用の道具&ヘルメット屋がいつからあるのかは知らないけれど、ここに売ってるもの、日本だったら「これナシでしょ」って感じだけど、台湾の人は買うんだ。変な柄のマスクとか。
台湾の人のマイウェイ加減がけっこう好き。ワタシだって相当、我が道行ってきたと思うけど負ける。
負けて上等!って感じですけれど。



2015年9月8日火曜日

台北のY字路⑯(萬華・萬大路)






きょうのY字路(萬華・萬大路)。

華中河濱公園前、魚市場まえ。
http://taipeimonogatari.blogspot.tw/2015/08/y_7.html?m=1


写真中央の広告「林合發」は、台湾おこわの老舗。
男子の一ヶ月目の内祝として絶大な人気があり、あの郭台銘(iPhoneの中身を作っているフォックスコンの創業者で台湾一のお金持ち)も、自分の息子のお祝いにここを選んだという。
周囲には饅頭(マントウ)屋の老舗やチャイナドレスを作る店があり、かつて萬華の賑わいが、迪化街から離れた川沿いのこの辺りまで、行き届いていたことが伺われる。

いい感じの左側の路地を進んでいくと・・・

ここもY字路になっていた。


字路の角に廟(お寺)があるのをよく見かけるけれど、これも「魔物が真っ直ぐしか進めない」ことから出来た「石敢當」と同じような役割なんだろうか。

「石敢當」についてはブログの過去エントリーを参照ください。
http://taipeimonogatari.blogspot.tw/2015/08/y_7.html?m=1

ひたすら路地を進んで聞こえてくるのはすべて台湾語で、下町の情緒が色濃くのこる。


2015年9月7日月曜日

台湾映画「青田街一號」~小1男子とニヒリズム




青田街が舞台だと思ったら

ホラー映画かと思ったら

カンフーアクションかと思ったら

な意表をつく闇鍋コメディー。


隋棠(ソニア・スイ)が経営するクリーニング店は、実は殺人業も請け負っている。
誰かの人生の重荷、もしくは汚点になっている人を殺して、クリーニングの作業場で跡形もなくしてくれる。
そこのヒットマンである「青田街一号」(=張孝全)が、いつの頃からか殺した人に取り憑かれてしまった。人を殺すのは平気だけれど、幽霊にまとわりつかれるのは真っ平な「青田街一号」。
除霊を頼むために訪れた霊媒師「林香」(萬西)も巻き込んで、殺した人々のコトの顛末から「青田街一号」の名前の由来、「阿姑」(隋棠=ソニア・スイ)の秘密が明らかになってゆく。

コロンビア大学で映画の演出を学び、鈕承澤・侯孝賢監督に師事した李中の初監督作品。脚本には、「総舗師‐メインシェフへの道」や、このまえ直木賞を受賞した東山彰良氏が好きな作品として挙げた「ラブ・ゴー・ゴー」の陳玉勳監督も参加した。

陳玉勳監督の「小1男子+ニヒリズム」な笑いのセンス(大好き!)は脚本によく生きていて、しいて言えば藤子・A・不二雄的の「笑うせえるすまん」的なブラックユーモア。
こういう映画、台湾では今迄意外となかったんではないだろうか。このチャンポンな感じが台湾の多様性をよく表しているし、台湾映画の新しいステージを感じさせてくれた。

やけに印象に残っているのが、クリーニング屋の女主人・隋棠(ソニア・スイ)のものすごい角度でアーチ状になった唇。やっぱモーターショー・クイーンとかになるレベルだとあそこまで口角あがるのかね。日本だと、稲森いずみさん的な雰囲気。
そして、ラストの白目。綺麗なだけに物凄くこわい。

もひとつの見どころは、張孝全が「阿姑」(ソニア・スイ)をみる時の、邪気をまったく消した子犬の様な眼。
ヨダレ垂れそうなぐらいキュンキュン来る。
なんでそんな目が出来るんだよ。
男っぽさも、可愛いかんじも、クイアな役回りもなんでもどんと来いの張孝全、さすが影帝と呼ばれるだけのことはある。

張孝全と付き合ってるらしい大陸の女優・萬西は斜めからなど、観る角度によっては真木よう子さんを彷彿とさせて、軍中楽園と同じ女優さん???って言うぐらいのイメチェンぶり。

さて、よくわからないこともいくつかあった。
1・最初のシーンでどうして萬西は刑務所の中庭にいたのか
2・ぽっちゃり好きオタクを最終的に誰が撃ったのか

このあたりの辻褄を丁寧に合わせていくことが出来るなら、これからのこのテの台湾映画は、更に更に期待できそうだ。
ちなみに、台北の「青田街」に青田街一號という住所はない(一巷はある)。
観終わった後は、台北の幻の場所からひょっこり現実世界に戻れたような気分で、ホッと一息をついた。




2015年9月1日火曜日

台北のY字路⑮(連雲街)~民国64年の地図









きょうのY字路。

有名な鼎泰豊(ディンタイフォン)本店があるので観光客でも一度は行ったことのある永康街の、信義路を挟んだ反対側に入っていったあたり。
日本時代前には「頭埤」、日本時代に入って永康街も含めた一帯が「東門町」と名付けられた。

戦後になり、中華民国が台北に臨時政府を置いて、町名が全面的に改定される。
命名は基本的に、台北を四つのエリアにわけ、それぞれに中国大陸の地名を同じ位置関係のまま縮小して当てはめる方式。
(上海から来た建築士・鄭定邦の編み出した方法で上海でも採用されている ※1)

台湾で生まれた子供たちが、中国大陸に行っても地理関係で迷うことがないように。当時の中華民国政府の「いつか帰る」って意思が強く感じられて興味深いですね。

ちなみに当時といっても、民国64年(1975年昭和50年)作成の中華民国の地図だが、首都は南京でモンゴルまで領土に入っている。
そんな地図を使って学校で子どもたちに「我が国の地図だ」って教えてたわけだ、この小さな島で(今も建前上はそうなのか?)。


それ、わたしの台湾人夫が高校生ぐらいまで、つまりほんの25年ぐらい前まで台湾の学校で行われていた普通の教育だったというのが、今の自由にあふれた台湾のパッと見からは俄に信じられないような、ホントの話。

ちなみに、この写真の道路名はそれぞれ

連雲街:江蘇省連雲
臨沂街:山東省臨沂

から来ている。
1930年代の地図を見ると、ここも例によって水路の広がりに沿って出来たY字路。





※1  http://site.douban.com/123095/widget/forum/4422719/discussion/40913707/







2015年8月29日土曜日

好兄弟とお中元


旧暦7月15日の今日は「中元節」。
道教では「中元普渡」、仏教では「盂蘭盆(うらぼん)」と呼ばれる施餓鬼会(せがきえ)です。
この日は一年の中で一番盛大なお供えものをして、鬼月の間に地獄から出てきて彷徨っている好兄弟(無縁仏)の霊をもてなし、紙錢を燃やして冥福を祈ります。街中で一斉に大量の紙錢を焼くこの日は一年の中でもとくに空気が悪い日なのですが、今年は、一日中降りつづけた雨のおかげであまり影響はありませんでした。


そもそも、道教の最高神・玉皇大帝には三人の兄弟がおり、この中元の日は三兄弟の中のひとり、地官大帝のお誕生日に当ります。
それを昔、身寄りのない寂しい魂を憐れにおもった地官皇帝が
「自分の誕生日は祝わなくて良いから、無縁仏の魂を祀るように」と仰せになったことから、中元の拜拜(バイバイ)は現在のような形となりました。

この日の特色は、お供え物と一緒に水を張った洗面器とタオルが置いてあること。
さまよい疲れた好兄弟に身づくろいして疲れを癒してもらいます。
所によっては、鏡やクシ、石けんや歯ブラシなどを供えるところも。


この風習が日本に渡り、いつしかお世話になった方への贈り物の習慣として定着したのが「お中元」です。






2015年8月28日金曜日

台湾映画「醉・生夢死」~ 一期は夢よ、ただ狂え 




なにせうぞ
くすんで
一期は夢よ
ただ狂え

室町時代の歌謡「閑吟集」のなかの歌だ。
この夏に台湾で公開された映画「醉・生夢死」を観ていて、そんなのを思い出した。



夜の飲み屋でママをして二人の兄弟を育ててきた母親はアル中で、仕事が終わっても日がな一日飲んでいる。
台湾大学を出た優秀な兄の上禾は、母親の反対を押し切ってアメリカへ留学。弟の「ネズミ」(老鼠)だけが、呑みすぎの母親を心配してちょくちょく帰って来る。母親は、出て行ってしまった兄のことばかり心配している。


時は過ぎ、川沿いに建てられたボロボロの集合住宅の中に、ネズミは兄と従姉とその彼氏と同居していた。
どうやら母親は死んでしまったらしい。
ネズミは身体に刺青をいれてチンピラを気取り、市場の野菜売りの手伝いをしながら酒を飲み、いつもホロ酔いだ。
母親が亡くなった後にアメリカ留学から帰ってきた兄はゲイで、自殺未遂をしたが死にきれず、日々西門紅楼のあたりのハッテン場をうろついている。
ネズミにとってのスターは、従姉の彼氏の仁碩。
「アニキ」と呼んで慕い、部屋にはブロマイドを大きく引き伸ばしたポスターまで貼ってある。仁碩アニキの職業はホストで、同居人にもお構いなしに家ではセックスばかり。
ネズミの彼女は、援助交際で日銭を稼いでいて、喋ることが出来ない少女である。


なんか、こう書いているだけで気分が沈んでくる欝設定だけれども、本当にそんな「やり切れない」話だ。



日本語の四字熟語にもなっているタイトルの「酔生夢死 すいせいむし」という言葉を、辞書で引いてみるとこんな言葉が出てきた。

ただ生きただけのむだな人生についていう。
酒に酔ったような、ゆめを見ているような心もちで、ぼんやりと人生をおえること。
(三省堂/新国語辞典)



社会の隅っこで、あくせくと、またはボンヤリと人は生きて死んでいく。どちらにせよ、どうせいつか同じ場所に帰っていくのだ。
自分の手に蟻をのせて動きを追うというネズミの遊び(というか唯一の趣味)は、大いなる運命の手の上で弄ばれるちっぽけで弱い存在である自分を見つめているようだ。だから、ネズミが蟻にかける言葉は優しい。死にかけのドブ鼠を見かけたときにかける言葉も優しい。
自分よりもさらに社会的弱者である彼女にも、優しい。


登場人物が夢心地に酔いどれて映画が進んでいくについれて、兄の家出の原因やネズミのトラウマ、仁碩アニキの背景が明らかになってきて、それを元にすべてが破滅へと向かう。


終盤でネズミは、川岸に下りていく。
川岸に行くと、死んだはずの母親が待っている。
酔って兄の姿しか映していないように見えた母親の目に、今は自分の姿も優しく映し出されている。
映画はそこで一度途切れ、いつもの市場でネズミが野菜売りを手伝っているシーンに戻る。いつもと変わらない風景。
そこに、喋ることの出来ない彼女や仁碩アニキも登場して、挨拶を交わす。


その市場は恐らく死後の世界である。


あの世でも、相変わらず人々はあくせくボンヤリと、この世と同じように生きている。
映画には描かれていないが、きっと母親に手を引かれてネズミは川に入り死んだんだろう。
それを匂わせるのが、ネズミが川岸に下りる前に、自分の大事にしていた蟻と母親の酒瓶とを外の塀の上に置き去るというカット。酒瓶は母親の、蟻はネズミの執着をあらわすメタファーである。
そこに見えるのは、「死」だけが人を執着から解放してくれるという哀しい人間の業みたいなものだ。


印象的だったのは、ネズミが夜の川べりで強い酒を地面に撒き、彼女を喜ばせようと見せてあげる風景。
撒かれた酒に火をつけると、青い炎の「LOVE」という言葉が現れる。
母を殺したアルコールが燃えるその中に、マッチ売りの少女宜しく「愛」を見い出しても、それは儚くすぐ消える。何とも悲しくて美しいシーンだった。


さて映画は最後に、「あの世」と思われる市場(ワタシの勝手な解釈ではあるが)で仁碩アニキがネズミに「ちょっと休憩してくるわ」と挨拶して市場を離れ、家の暗い廊下を通って、向う側にひかる明るい出口を目指して歩くところで映画は終わる。
恐らく廊下は母親の胎内を表しているのだろうし、仁碩アニキが「休憩してくる」というのは、またコチラの世に生まれてくるという事なのだろう。
とにかく、この映画のあらゆる場面で「母親」というものへの喪失感が繰り返し描かれる。
「母親の愛」とはつまり見返りを求めない、ただ自分を包んでくれる存在ということだろう。
これって監督の胎内回帰願望なのかしら。


実はこの張作驥監督、脚本家の女性をレイプしたとして起訴されて、裁判中にこの作品を撮った(すごい精神力だ)。
しかし完成後に刑が確定し、この6月の台北映画祭で六部門を受賞したにも関わらず服役中で監督不在という異様な授賞式となった。
本人は無罪を主張していたらしい(物的証拠があるレイプの無罪というのはつまり合意のもとで、っていう主張なのだろう)。
で、映画を観た後にこれらの事を知って思ったのは、正直、胎内回帰したいなら映画の中だけにしてくれよ、ってことである(笑)


映画の舞台は公館にある「寶藏嚴」という寺の脇にある集合住宅で、候孝賢(ホウ・シャウシェン)監督の映画のロケ地としても有名だ。

太平洋戦争後、台湾の各地に国民党と一緒に中国から渡ってきた人々による違法建築の住宅群が建てられて、それらは「眷村」と呼ばれた。
この「寶藏嚴」もそんな「眷村」的違法建築群のひとつで、日本統治時代には弾薬庫だった場所だ。日本が戦争に負けて台湾を去ったのちに、国民党軍の下級兵士やその家族が住み着いて増築を繰り返した。
戒厳令時代が終わって中国と台湾の外交が再開するまで、30年以上も故郷に帰れなかった人々の想いの気配は今も色濃く、わずかに残る住人の洗濯物が過去と現在の間をはためいているような、台北の歴史のエアポケットである。
取り壊される瀬戸際だったが、歴史的価値が注目されて保存運動が起こり、芸術村として生まれ変わった。今は台北市管轄の史跡で、アーティスト・イン・レジデンスとして各国から若い芸術家が集まる。

2015年8月24日月曜日

湾生の画家・立石鐡臣と七夕


今年の旧暦七夕は8月20日。

現在はバレンタインデーに並ぶカップルイベント的お節句「情人節」になっているけれど、元々台湾では福建の風習から来た「七娘媽生」または「乞巧節」と言って、色々なお願い事をしたり、お裁縫が上手になるようにお祈りしたりする日だったらしい。
例えばおしろいを撒いて自分の顔に当たったら美人になるとか。

七娘媽は日本でいう織姫のことで、機織りやお裁縫などの家事がすごく上手だったのが彦星(牽牛星)と出会ってからは色ボケしてしまって何もしなくなったから玉皇大帝の怒りをかって別れさせられ、七夕の日だけ会えるということで、この辺は日本と一緒ですね。

面白いのは七夕の雨に対する言い伝えが各国で違うらしいことだ。

日本→雨が降ったら会えない
台湾→別れを惜しむ涙のため夜ふけに雨が降る
韓国→出会えた嬉しさで号泣するので、必ず土砂降りになる



冒頭にアップした絵を描いた「立石鐡臣」は「湾生(わんせい)」、つまり日本統治時代の台湾で生まれた画家である。
昔ながらの台湾習俗に関する「台湾民俗図絵」を沢山遺したことで、台湾では知られている。
この習俗、多分いまの台湾人だって良くは知らないことが沢山含まれていそうという意味でも貴重だ(この七夕の御節句のことだって知らない人は多いと思う)。


ところで、今年の5月に銀座の泰明画廊にて「立石鐡臣」のはじめての回顧展が開催されたらしい。

そのページで絵をみていると、「何で今までこの人のことを知らなかったのだろう」っていうほど、素晴らしい。
日本では今まで全く知られて来なかった画家なのだから、無理もないのだけれど。

師匠である梅原龍三郎やゴッホに強く影響されたような油絵を描いた時代を経て、梅原のすすめで台湾に渡り、民藝的な庶民の習俗を記録する「台湾民俗図絵」に参加して、数々の木版画を残したが終戦。
引き揚げ後も、意欲的にシュールレアリズム的作品を描いたほか、戦前に描いた「台湾民俗図絵」を元にした漫画的な作品などを発表(これめっちゃ見たいですが)。
日本の戦後のボタニカルアート(植物・昆虫図鑑)の発展にも寄与している。

民藝の絵はもちろん昆虫の絵も好きだけれど、70年代の作品もすてきだ。
あの須之内徹氏の、

立石さんの忘我の時間が伝わってくる。そしてじっと見ていると、黄金中の一匹一匹、蛾の一匹一匹ひとつの宇宙になる。その感じの不思議さを、私は体験としか言えない

という評を読んで、わたしが言いたい全ての謂うべき言葉を腹から全部もぎ取って行かれたと思った。
  いま楽しみなのは、台湾の女性ドキュメンタリー映画監督・郭亮吟さんがつくった「湾生画家・立石鐡臣」。
郭さんは2006年の「緑的海平線」という、太平洋戦争中の戦闘機製作に携わった台湾の少年たちに取材した作品で台北映画賞ほか数々の賞を獲得した。

立石鐡臣の再評価は、いま始まったばかりだ。






泰明画廊/立石鐡臣展
http://www.taimei-g.com/artist/tateishi/tateishi.htm








2015年8月21日金曜日

レモンの花嫁

今年も、天母に住む友人Yさんの庭になったレモンをいただいた。

先日の台風の凄まじく凶暴な風にも、耐えたエライ子たち。
どっしりと無骨なルックスなくせに、中心から発光しているような黄色をしてホンノリ薔薇の薫りもする。
今まで見てきたレモンと随分おもむきが違うので、初めて観た時はかなり感激したが、今でも毎年会うたびに驚きがある。神話に登場するレモンもかくや、と思わせるようなレモンだ。
(これを贈ってくれるYさんがなかなかお目にかかれないぐらい美しい女性である、ということも幾分関係するかもしれないけれど)

神話に登場する・・・というところで、そういえばレモンが登場する神話的なお話を、あまり知らないことに気がついた。
しらべてみると「レモンの花嫁」(もしくはオレンジの花嫁)というエジプトの昔話に興味を惹かれた。

とあるエジプトの王がやっとのことで王子を授かった。
ある日、王子が自分の手をナイフで傷つけてしまう。王子の血はミルクに落ち、ミルクは薔薇色に染まった。その美しさを見た王子は、「こんな肌をもった女性を探しに行く」と言って城を出てしまい、王は悲しむ。
理想の女性を探して終に地の果てまで来た王子は、三人の魔女に会って、それぞれ「死」「生」「誕生」を象徴するレモンを授かった。国に持ち帰って三個目の「誕生」のレモンを王子が切ったとき、そこから薔薇色のクリームのような肌をした金髪で碧い瞳のうつくしい女性が現れたという。

これ以降も話はごちゃごちゃ続くのだが、ここまで来て、


「あれ?これって『王家の紋章』?」

って思ったのだけれど漫画も手元に無く今は調べようがない。ただ、メンフィスがナンシーに会った時に「伝説の金髪の乙女」とか何とか言っていた覚えがあるので、この「レモンの花嫁」話にもとづいているのかもしれない。

ともかく、果物を切ったら佳人が出てきてという話は、日本でも「桃太郎」やら「瓜姫」やらが思いつく。三つの決め球を戴く話なら、ウチの子が大好きなむかしばなし「三枚のおふだ」から、イザナギノミコトが死者の国から逃げるとき三つの桃を投げながら逃げた国造りの話まで枚挙にいとまがない。
世界の民話を耳にするにつけ、昔ながらの民話こそが「グローバル」だったと驚かされる事は多い。それぞれの土地に語られて降り立ち、人々の身体に染みこんでから、その土地の物語として語られる、そのぐらいの時間が本来の「グローバル化」には必要なのかもしれない。


そうそう、「檸檬」といえば、アレだ、祝・京都丸善復活♥





(エジプトの民話はこちらを参考にさせてもらってます:http://members.jcom.home.ne.jp/tink/botan/flower1/hana3ragyou.htm)

2015年8月17日月曜日

最近のSAKETIMS記事より



SAKETIMESにて、先日たなばたの夜に行われた、「山口の銘酒・五橋と夏のお料理のゆうべ@山口湯田温泉・割烹ひさご」の模様を書かせて貰いました。

http://jp.sake-times.com/special/report/sake_g_gokyouevent

2015年8月16日日曜日

台北のY字路⑭~陳さんのお盆



きょうの布袋戲(プータイシ)のあるY字路。

これから一ヶ月続く「鬼月」を無事に終えることが出来るよう、いつも近所の「大学公園」の氏神様のところで祭礼があります。

太平洋戦争が終わって日本人が去り、住んでいた和風家屋は国民党に接収されたので、台北帝国大学関係の日本人が多く住んでいたこの辺りは、戦後に移民してきた外省系の人々が多く住むエリアとなりました。
その中に一部、温州街の大学公園がある辺りには昔から本省人が住む場所があり、「台湾人村」と呼ばれていたそうです。人々の姓を「陳」といい、「台湾人村」の中心に辛亥路が開通すると共に散り散りになりました。
本来、「大学公園」にある「白霊公」は陳一族の祖先を祀る廟でした。現在はこの地域の氏神さまとして祀られていますが、この時期には陳家の末裔も集まってきて、地元の人々と共に祭りを行います。つまり「お盆」です。

時は古く、ここ大安区が「大湾」と呼ばれていた清・乾隆帝の時代。
福建省安渓から海をわたってきた移民の人々によって、この湿地帯は開拓されました。

大安区の開拓民の中で財を興した家の一つ、「陳氏」は、現在の「自来水」裏側の芳蘭路✕基隆路あたりに、当時の伝統的な中国式建築である三合院の住居を建て、「義芳居」と名づけました(現在は古蹟)。
その子孫たちが大安区内に散って居を成した、そのうちのひとつが、現在の温州街にあった陳家の「台湾人村」であったようです。

陳一族のお墓は、始めは西門町一帯にあったものの、日本人の都市計画により西門の地を追われ、華西街→華江橋と次々に已む無く場所を替えます。そして終に、いま台北市の公共葬儀場(第二殯館)がある辛亥路三段の脇に「萬善堂(地蔵王廟)」を建て、漸く安住の地を見つけました。
その地域の町内会長である陳氏の子孫が毎日焼香をし、お茶を奉じて世話をしていますが、とある日、いつものお茶を忘れて立ち去ろうとしたところで、背後から「お茶はどうした?」という声がしました。それ以来、毎日お茶を絶対に欠かさないようになったということです。

伝統のある廟(寺)の祭礼には、大体、移動トラック式の劇団が呼ばれます。
かつては何人も登場するような豪華な「歌仔戲(台湾オペラ)」が呼ばれたものですが、近年はひとりの出張で出来る「布袋戲(人形劇)」に変わりつつあるようです(声は録音)。

人形劇が呼ばれるだけでもまだ良い方で、台北のいろんな場所で行われているこういった伝統的な風習は、だんだんと簡素化がすすんでいます(日本でもおなじですね)。




2015年8月15日土曜日

鬼月おぼえがき


さて、きょう旧暦の七月一日より始まった「鬼月(グエユィ)」。

地蔵王大王(日本でいう閻魔大王)がこの世と地獄を隔てる「鬼門」をひらき、あの世より「好兄弟(ハオションディ)」と呼ばれる亡者たちが、こちらに戻ってきた


鬼月は次の新月までの一ヶ月続き、そのあいだ、台湾ではいろんな「禁忌」がある。
大きなものでいえば結婚や引っ越し、不動産取引だが、他にも細かく「避けたほうが良いこと」が色々とある。

たとえば、

1.赤い服赤い色はあの世と通じ合う色なので、なるべく避ける。でないと、好兄弟にまとわりつかれやすく、疲れやすい。また大事なときに力がでない。女性の赤い下着はとくに避ける

2.夜に服を干さない(好兄弟が自分の上着だと思って居付く)


3.ひとりで海に行かない(日本ではお盆に海に入るなと言われるが、同じ理由)


4.夜10時の公園や山の上には行かない
(好兄弟が集まっているから)


5.路上に落ちてるお金を拾わない
(好兄弟のものかも知れないから)


6.後ろをむいて歩かない


7.肩から上の写真はなるべく撮らない。
(人間の身体のうえには三つの火が灯っているとされているが、写真を撮られるとそのひとつが消え、好兄弟に身体を乗っ取られてしまうという)

8.夜遅くに家人の名前を大声で呼ばない


9.壁に寄りかかりながら歩かない(好兄弟は壁と服をくっつけて休むことをこのみ、仲間と思われるから)


10.一人でいるところで、肩を叩かれたりフルネームを呼ばれてもぜったいに振り向かない


11.出来るだけ最終バスに乗らない

12.好兄弟が好む口笛を吹かない

13.ごはんに箸を建てると、好兄弟がじぶんに分けてくれたと思い寄ってくる
(箸を立てるのは香炉に線香を立てることに通じ、死者へ食事を奉るときの作法である)

14.風鈴を家の中の色々なところ(特に枕元)にかけない。
(風鈴は、好兄弟の好きな「陰」の気を誘う)

15.老人や子供など比較的からだの弱いものは、夜の外出を避ける




などなど。



さて、寝苦しい夜が、いくらか涼しくなりましたでしょうか・・・?

2015年8月12日水曜日

台北のY字路⑬(師大路)




きょうのY字路。

師大夜市で有名な師大路の、真ん中に見える「師大公園」。
別名を「撿屍公園」とも呼ぶらしい。
撿屍体」というのは、悪い外人(とは限らないかも)が女の子に酒を飲ませて前後不覚にさせてからチョメチョメしちゃうという意味のクラブ用語だ。
いわゆる「マグロ」ってやつですね。しかも「まな板の上のマグロ」。
「死体拾い」なんて、上手いこと言いよるなと思いましたけれど。


戦後、師大商圏の龍泉街付近には違法のバラックが建てられ露天商が立ち並んでいたという(師大公園前にあるボロボロのバラックの錠前屋なんかは当時の名残なんでしょう)。
それが大きく整理されて作られたのが、現在の師大路および師大公園だ。
そもそもこの一帯は、昔から文化の香り濃い「城南区」(かつての台北城の南側にあたり、台湾大学や師大があることから多くの作家や学者、文化人が暮らしてきた)の中心である。
2007年ごろから衣服やアクセサリーの露店商が多く集まるようになり、作家の韓良露(過去のエントリー「永遠になつかしい〜韓良露さんのこと」参照)はここを「南村落」と名付け、台北の飲食文化や生活スタイルのリーダー格的な場所として打ち出す。
しかしこれが、旅行番組や雑誌で「台北の美食とファッションの一大メッカ」として取り上げられ多くの観光客を惹き付けた結果、深夜まで外国人が馬鹿騒ぎする飲食店が増え、不衛生になって、街の環境悪化に繋がった。それが冒頭の「検屍公園」といわれるまでの事態に発展していく。

その酷さは、朝方に師大夜市付近を歩いたことが有る人ならわかると思う。
腐った食べ物とゲロと尿と下水の入り混じったにおい。
東京の麻布十番に暮らしていた頃「十番祭り」の翌日の街は決まってそんなにおいだったが、それが一年365日毎日続くとすれば、逃げ出したくもなるというものだ。
しかも、折しも台北の土地の価格が二倍三倍とウナギ登りに上昇していた時期で、環境のせいで土地の値段も上がらないとなれば、住民にすれば忸怩たる思いだろう。
ついに、2011年から付近の三地区の合同組織が作られ、違法な店や衛生悪化の原因となる飲食店の排斥を掲げて住民運動が巻き起こり、政府も介入する騒ぎとなった。


師大路の名前のもとになった台湾国立師範大学は、日本時代は「旧制台北高等学校」といい、元総統の李登輝氏も通った学校だ。当時の街の呼び名は「古亭町」。
1930年の地図を見ると、学校をぐるりと囲む疎水がY字路のちょうど先あたりに来ているのがわかる。


現在の師範大学には美術・音楽学部も設けられており、師大デザイン系の研究室が経営する「青田十六」は日本時代の木造建築をリノベーションしたギャラリースペースで、川島小鳥さんや「みさおとふくまる」の台湾初の個展も行われた。
政治的駆け引きの上手さから「王金平最強伝説」とも呼ばれる(というか勝手に呼んでる)与党の大物政治家・王金平氏もここ師範大学の出身だ。


さて、住民運動に話は戻る。
その後三地区合同組織のなかで内輪もめが勃発し、更には政治的汚職にも飛び火したことから組織は解散、おかげで師大夜市も存続する運びとなって、今にいたる。
それでも随分様相は変わったが、名茶館「小慢」に代表される美学を持った面白い店が現在も巷子の中にひっそりと営業をつづけ、故・韓良露さんの「南村落」の夢をいまに伝えているのは幸いだ。