2017年10月9日月曜日

『台湾、Y字路さがし。』販売状況


【書店およびネットでのお取り扱い状況】
お取り扱いを確認した日本/台湾の書店様やオンラインショップ様をご紹介、随時追加しています。もし新たに見つけていただいた際はご一報ください☆
また、お取り扱いのご希望も承りますので、コメントかメッセージ頂けますと幸いです。
<台湾>
紀伊國屋書店(台北)
淳久堂書店(台北)
誠品書店各店(台北)
欒樹下書店(台北)
永漢書局(台北)
台灣e店(台北)
青鳥書店(台北)
晃晃書店(台東)
新南12(桃園大渓)
<日本>
※ 日本では小売り価格が大きく異なりますので、各販売状況を確認のうえ、ご検討ください
下北沢B&B(東京下北沢)
東方書店(東京神保町)
内山書店(東京神保町)
誠光社(京都)
文榮堂道場門前本店(山口市)
ベジタブル喫茶ToyToy(山口市)

2017年9月24日日曜日

【お仕事報告】nippon.comで台湾映画《紅衣小女孩2》についての記事を書きました


通過《紅衣小女孩2》等最近的鬼片潮流、寫了一篇關於在電影裡台灣民俗信仰的深化。
今年の台湾映画いちばんの興行収入を叩き出している大ヒット作『紅衣小女孩2』をはじめ、最近の台湾での「ホラー/オカルト/民俗」ブームを通して感じる台湾本土意識の深化についてnippon.comで書きました。
先に繁体字版の公開となっています。よろしくお願いします!

2017年9月17日日曜日

【メディア掲載】『台北畫刊』の日本語版インタビュー


感謝台北市政府《台北畫刊》外文版的專訪~感覺太奇怪自己在封面上,這不是「封面生產器」啊XD

台北市観光局が出版している季刊雑誌『台北畫刊』の日本語版(及び英語版も?)で、インタビューをして頂きました。
Y字路本や台北での生活について4ページほど紹介して貰っており、なんと表紙カバーにも載っていてびっくり。。。
MRTの駅や市内の観光地に置かれているようですが、写真が大きすぎで、シワシミタルミの「2シ2ミ」が残酷に映し出されていますので、ご覧になる場合は薄目で見ていただくようお願いします!!!

2017年9月2日土曜日

【山口県の旅】天上大風/周南市鹿野漢陽寺



暑さきはまり蝉澄みわたる一人(山頭火)


お寺の中にご案内いただき座って一息。
現住職夫人の杉村妙子さんが出してくださった一杯の冷茶が、水琴窟みたいに共鳴しながら喉をおちていく。
焙じた芳ばしさと、西瓜のような涼やかさがほのかに香る不思議なお茶で、このあたりの名産の「鹿野茶」というそうだ。

ここ山口県周南市鹿野の「漢陽寺」は、唐の杭州で修業した用堂明機禅師が開山した名刹で、鹿野茶はその時に持ち帰られた茶種がもとになっている。杭州といえば「龍井茶」が有名だが、鹿野茶も当時から変わらず、龍井茶と同じく摘んだその日のうちに茶葉を釜で煎る製法が伝えられている。
美味しく感じるのは、すばらしい佳人が淹れてくれたというだけではない。住職のお母様が定期的に茶葉をふたたび台所で半日ほどかけてじり、じりと煎る、その煎り方に秘訣があるらしい。
「義母のように美味しく煎ることができるようになるには、まだ時間がかかりそうで」と妙子さんがほほえむ。
伝統を重んじつつモダンを感じる日本式庭園がぐるりと囲む荘厳な本堂は、樹齢2000年を超える台湾ヒノキだそうだ。
前住職の庭造り好きが高じ、8年をかけて昭和41年に完成した庭を作ったのは重森三玲、昭和を代表する日本庭園の作庭家であり研究者である。

6つの庭園にはそれぞれ、平安・鎌倉・桃山など異なる時代の庭園様式が盛り込まれ、重森美学をたっぷり贅沢に堪能できるが、どの庭にもどこか親しみを覚えるのは、使われている石のせいだろうか?
山口の防府大道辺りから東に行くと、ゴツゴツと尖った岩肌の山が多くなるが、庭を彩る石たちは、そんな山口東部の山の形を彷彿とさせる。
それもそのはず「庭の石にはその土地のものを使うべし」というのが重森三玲のポリシーだったそうで、県内のどこそこにイイ石がある、台風で道路を塞いだイイ巨石がある、と聞いては前住職と連れだって駆け付けたという。



中庭に7つの石が追いかけっこをするように丸く置かれた石庭があり、「地蔵遊化の庭」と名付けられている。
遊化=遊戯は仏教から来た言葉で、生きること自体を楽しみ遊ぶ境地をいうらしいが、それを聞けばこの重森三玲と前住職が8年がかりで作ったこの庭達そのものが「遊化」といえるのかもしれない。
ちなみに地蔵遊化とは、お地蔵様が子供たちと無心に遊ぶさまである。そう聞いて思い出すのが良寛和尚のことだ。子供たちと隠れんぼしたり鞠をついて遊ぶ事を何より大事にした良寛和尚は、子供が揚げる凧にどこまでも高く上がるようにとの願いを込めて「天上大風」と書いた。

そこからまた連想したのが、台湾の台東にある、同じく「鹿野」という場所で上がる熱気球。
偶然にも台東鹿野もまた茶の産地だが、その台東を舞台にしたドキュメンタリー映画の公開が全国各地で始まっている。酒井充子監督による『台湾萬歳』で、台湾の日本語世代の方たちの半生を追った『台湾人生』『台湾アイデンティティ』に続く台湾三部作の最後の作品である。酒井監督の出身地は山口県周南市で、じつはこの漢陽寺さん、酒井監督にお薦めしていただいた。
10月には、地元周南市のMOVIXでもお披露目会があると聞く。お近くの方はぜひ足を運んでみてはいかがだろう。

酒井監督が映画に込めた想いが、高く広く届きますように。
台北でも早く上映されてほしいものだ。


2017年8月30日水曜日

【取材メモ】知の巨人・國分直一の思い出を聞く



台湾の考古学・民俗学の基礎をきずいた知の巨人・國分直一先生と親交の深かった、山口県立大の安渓遊地教授ご夫妻が台北にお見えになり、青田七六でお話を伺いました。
台湾高雄の小さな港町で少年時代を過ごし、京都大学卒業後に台湾にもどって研究者として活躍した國分直一。安渓先生が編まれた、國分直一自伝エッセイとインタビューをまとめた書籍「遠い空」は、日本時代の高雄の風景が國分先生の実直な言葉でのびやかにスケッチされていて、読みごたえがあります。


雑誌『民俗台湾』を立ち上げた金関丈夫や立石鐵臣らと共に、戦後もしばらく遺物の修復などのため留用され台湾に残り、その仕事は台湾でも高い評価をうけている國分先生ですが、立石鐵臣も、愛情あふれる人物スケッチを幾枚も残しており、その素直・つつやましやかで愛される人柄が透けてみえます。



留用期間が終わり日本に戻られてからは、各地の大学で教鞭をとったあと山口県下関市の梅光学院大学で教え、80歳代後半まで名物教授として学生を指導されました。ビフテキとハヤシライスが大好物だったそう。
じつは先日の帰省時に、今は空き家になっている山口市市内の國分先生のご自宅を観に行ったら、なんと、わたしが中高を過ごした家のすぐ近くでした。ひょっとすると、その頃、国分先生と道ですれ違っていたりしたことがあったかもしれないと思うと愉快です。


國分先生がお亡くなりになったあと、その膨大な蔵書はすべて安渓先生の手で、台湾大学図書館に寄贈され(そのほか金関丈夫の蔵書も)、現在は台湾大学図書館五階の特蔵組で見ることが出来ます。人の本棚というのは、まるでその人の頭の中をのぞき見しているみたいで、面白いというかちょっと後ろめたい感じがするのですが、台湾大学図書館で國分先生の脳みその一部を覗きみてると、会ったこともないのに、とても慕わしい気持ちになるのだから不思議で、それも國分先生のお人柄のなせる技なのかもしれません。


2017年8月17日木曜日

【山口県の旅】萩の猫寺・雲林寺




山口縣萩市的山裡有一家貓寺「雲林寺」,就是貓奴天堂,交通非~常不方便 ,但為貓奴一定會有值得去。特別驚訝的是他們的手冊漫畫有英文版,還有中文繁體版啊!好像不少的台灣跟香港貓奴朋友已訪問過了,欸,你們的熱情真的太厲害了吧!
山口県で話題沸騰の猫寺、「雲林寺」さんに伺いました。
岡山のご出身である角田和尚さんが、色んなものに導かれるようにたどり着いたここ萩郊外の山村では、予想をうわまわる「猫愛」な世界がくりひろげられています。
昭和の曹洞宗の偉人で無為自然を説いた澤木興道師の本を読んで、仏道を志したものの、このままでは人生修行が足りないのではと思い直し、印刷会社でサラリーマンをして名古屋・東京と都市生活を過ごした角田和尚。
あらためて臨済宗へと弟子入りし、小僧としていろんな地に訪れているうち、山口に縁を得て現在の雲林寺へと赴任しました。途中、岡山で招き猫収集家だった伯母様の遺品を引き継いだあとから、いろんな方の猫グッズが奉納品として続々と集まるようになり、今に至ります。

檀家も多くが地を離れている萩の山奥で、赴任当時は雨のたびにバケツをもって寺中を走り回っていたそうですが、10年後に結婚、現在は奥様とお二人の子供さん、4匹のニャンコ(本物)、600体近くの猫像とともに、各国からお客さんを迎える毎日を送っています。本尊前には、なでるとご利益がある「びんずるさま」に倣った「びんずる猫」さま、お寺の中でみられる多くの猫像は、国際的大会でも多く入賞経験のある地元のチェーンソー・アーティスト、林隆雄さんのお手になるもの。
庭では、肉球が魅力的な猫手塔が屋根にたつ庭のほこらまわりを、ネコハギ・ネコノチチ・ネコノメグサ・マタタビなど、「猫草」たちが自然な姿でノビノビと身を伸ばしています。
また、和尚みずから企画・デザインしたグッズたちが本当にかわいい。本来なら欲から離れるための「禅寺」なのにも関わらず、物欲にまみれてしまうこと間違いなしです。


もうひとつ感動したことがありました。
萩の猫伝説を解説する漫画のオリジナル冊子が、中国語の繁体字版もあるのです(あとは英語版)。ここ一か月、山口県を取材でまわっているなかで、特に「看板やメニューに簡体字だけではなく、繁体字中文を足してほしい」という要望を伝え続けてきた身としては、格別にうれしく思いました。
雲林寺の山号は「栖月山」。わたしの「栖来」の字とおなじです!ご縁を感じるなあ。
なんだか懐かしい親戚を訪ねたような気分でした。

【戦後72年】引き揚げ・移民についてかんがえる『勿忘却事~忘却スルコト勿レ』ノート

(1)元・毎日新聞論説委員の下川正晴さんの新著『忘却の引揚げ史』をよむ。
文化人類学者・泉靖一が、旧満州からの引き揚げ途中に性的暴行を受け妊娠した日本女性に、「二日市保養所」にて当時は違法であった堕胎をほどこし戦後のあたらしい人生を与えた知られざる過去について、当時の証言や状況を掘り起こした本。
同じ女性として時に読み進めるのがつらい描写も多いですが、女性という立場を軸に戦争や歴史観について大いに考えさせられます。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4863291558/hnzk-22


(2)山口県長門市出身の画家、香月泰男の美術館へ取材に行く。
戦後のシベリア抑留を描いた代表作「シベリア・シリーズ」。中でも好きなのは「青の太陽」という作品です。抑留中のほふく訓練があまりにも苛酷で、蟻が巣の穴に入っていくのを見て、「ああ、自分も蟻になって穴の中で平和に暮らしたい」と願った香月が穴の中から空を見上げた、そこには昼間にも関わらず星が輝いていた(闇のように暗い穴から空を見上げると、昼間でも星が見えるらしい)・・・昼間の空に星が見えるほどの穴の暗さ、という壮絶な孤独とかすかな希望をかんじさせてくれる作品。
戦争とは、シベリアで経験したこととは何だったのか。
好むと好まざるにかかわらず、それを考え続けることが画家の一生に付きまといました。奇しくも、香月の郷土・長門にて、昨年ロシアのプーチン大統領が招かれ首脳会談が行われた際には、多くの日・ロのメディアが香月美術館へ訪れたものの、実際には記事にはならなかったそうですが、郷土を「わたしの地球」と呼んだ香月は、墓の中でどう感じていたのだろう。
ところで、香月には二人の息子さんがいて二人とも創作関係の仕事(建築)をしている。婦人は100歳でご健在。戦争に翻弄され、作品スタイルも時代ごとに大きく変わった。立石鉄臣を思い出さずにはいられなかった。

(3)山口県下関市、赤間神宮にある「大連神社」と旧満州から引き揚げた人々。

竜宮城のような下関の赤間神宮の一角に、旧満州から引き揚げてきた「大連神社」があることは、あまり知られていません。実際に終戦後、当時の大連神社の水野久直宮司の手によってご神体及び宝物が持ち帰られたもので、こういった例は大変珍しいそうです。
読売新聞の現・台北支局長、牧野田亨さんによる読売新聞誌上での10年ほど前の満州引揚者についての連載も拝読。丁寧な取材から書き起こした立派なお仕事。同じく「満州引き揚げ」といっても、本当に様々な立場や苦境があったことがわかり、その端々に(1)の下川さんの「二日市保養所」のような存在のリアリティもしのばせながら、多面的に旧満州からの引き揚げを描く、その相対的な筆致に共感しました。わたしが小学生のときに大ヒットしたドラマ『不良少女とよばれて』の原作・原笙子さん(しかもこの筆名・ロシアの「ハラショー!=素晴らしい」って言葉からつけられたと)も、当時の大連神社の舞人で、戦後に立場が逆転したことから中国人のいじめを受け、はじめて虐げられる立場を実感したという記述が印象的でした。


(4)明治期に日本最大のハワイ移民を送り出した山口県・周防大島の日本ハワイ移民資料館にいく。
「瀬戸内海のハワイ」で売り出し、カウワイ島と姉妹島として交流がある周防大島。のどかで風光明媚なこの島は、戦前は災害や人口過多で貧困に苦しみ「芋喰島」という蔑称でよばれ、日本でもっともはやくハワイに移民を送り出しました。
当地では番号で呼ばれ、サトウキビのプランテーションで働いたハワイ移民の苦難の歴史や、現地の日本人同胞による日本語・日本文化教育の資料も充実しています。また、山口県から多く渡ったペルー移民についての部屋もありましたが、第一期にペルー移民として渡った男性が身に着けていた「羽織袴」を見た瞬間に、そういう正装をして日本からいえば地球の裏側の遠い地にたどり着いた人の心境を思って、ぶわっと涙が出ました。ペルーでの移民環境は非常に劣悪で、多くの人が亡くなったそうです。
今回の山口取材では、「移民」や「引き揚げ」に関してたくさんのことを学びました。わたしたちは今、おおくの海外の人を働き手として、または住民として日本に迎えていますが、かつては日本人が逆の立場にあったことは、今ほとんど意識されることはありません。
戦前・戦後の事に関しての記憶がいまの日本人に引き継がれていない事柄は数おおくて、こういう、足元がゆるいところから未来について語ることは、とても「あやうい」感じがするのです。